覚園寺(かくおんじ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある真言宗泉涌寺派の仏教寺院である。山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は智海心慧(ちかいしんえ)である。鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた寺院である。相模国と武蔵国を結ぶ金沢街道から北に入った谷戸の奥に位置し、境内および周辺は自然環境が良好に保全され、都市化が進む以前の鎌倉の面影をもっともよく残す寺の1つといわれている。境内は国の史跡に指定されている。
『吾妻鏡』及び寺に伝わる『覚園寺縁起』によれば、鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の起源とされる。その後、9代執権北条貞時の時代に正式の寺院となった。伝承によれば、建保6年(1218年)、薬師如来の眷属である十二神将のうちの戌(いぬ)神将が北条義時の夢に現れたことが、薬師堂建立の端緒であったという。
『吾妻鏡』と『覚園寺縁起』の記述は、日付などの細部に関して相異する部分もあるが、おおむね次のような開創伝承を伝えている。
建保6年(1218年)7月のある日、執権北条義時は鶴岡八幡宮における儀式を終え、疲労のために仮眠をとっていた。その時、義時の夢に戌神将が現われ
「今年の儀式は無事に済んだが、来年の八幡宮の儀式には参列してはならぬ」
と義時に告げたという。このことがきっかけで、同年12月、北条義時は薬師如来を祀る一堂を建立した。
翌建保7年(承久元年・1219年)正月27日、鶴岡八幡宮における儀式の折り、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されるという事件が起きた。北条義時は、この儀式において御剣の役(実朝の剣を捧持する役)を命ぜられていた。しかし、心身の不調を理由に御剣の役を文章博士源仲章(中原仲章)に譲り、自分は退出した。この日の事件で源実朝と源仲章は暗殺されたが、北条義時は間一髪で難を逃れた。
『覚園寺縁起』によれば、義時が御剣の役を仲章に譲ったのは、白い犬の幻が通り過ぎるのを見て身の危険を察したためであり、この日、大倉薬師堂の十二神将のうち、戌神将像だけが堂内から姿を消していたという。なお、以上はあくまでも『覚園寺縁起』の伝える説であって、源実朝暗殺事件の真相については諸説あり、一説には、北条義時は事前に実朝暗殺計画を知っていたとも言う。
以上のような由緒をもつ大倉薬師堂は、北条家の歴代執権によって尊崇された。薬師堂は寛元元年(1243年)火災に遭い、北条時宗によって弘長3年(1263年)に復興した。その後、永仁4年(1296年)、9代執権北条貞時は、外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式の寺に改めた。この当時、文永8年(1271年)、弘安4年(1281年)の2度の元寇はすでに終わっていたが、3度目の元寇の脅威はまだ去っていなかったのである。
覚園寺では、この永仁4年をもって寺の創建としており、北条貞時を開基(創立者)と見なしている。開山(初代住職)に招かれたのは京都・泉涌寺の法灯を継ぐ智海心慧(ちかいしんえ、?-1306)という僧であった。覚園寺は、近代以降は真言宗寺院となっているが元来は浄土、真言、律、禅の四宗兼学の道場であった(浄土、真言、律、華厳の四宗とも言う)。
鎌倉幕府滅亡の年である元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺とした。建武の親政後、南北朝時代に入ると、足利氏も覚園寺を祈願所とし保護した。建武4年(1337年)の火災で仏殿(本堂)が焼失するが、文和3年(1354年)、足利尊氏により再建されている。なお、現存する本堂は足利尊氏再興時の部材を残しているが、江戸時代に改築に近い大修理を受けている。
覚園寺に現存する仏像は、室町時代の応永年間(15世紀初頭)の銘をもつものが多く、この頃に寺内が整備されたものと思われる。
近世末の文政13年(1830年)の火災で覚園寺は伽藍の大部分を失い、以後、寺運は衰微した。大正12年(1923年)の関東大震災でも大きな損害を受け、以後、1950年頃までは寺内はかなり荒れており、仏像も破損が甚だしかったが、その後徐々に復興し。
なお、覚園寺の入口正面にある愛染堂とそこに祀られる諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺から移されたものである。大楽寺は当初、胡桃ヶ谷(くるみがやつ、鎌倉五山の1つである浄妙寺の東の谷)にあり、文保元年(1317年)二階堂行朝が開基となって建てた寺で、後に覚園寺のある薬師堂ヶ谷に移転した。
境内
鎌倉の地形の特色である、尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)が覚園寺の境内となっている。境内には樹木が多く、自然環境が良好に保持されている。参拝者は境内に自由に立ち入ることはできず、定められた時間に、寺側の案内者の先導で、順路にしたがって拝観することが求められている。尚、拝観時の写真撮影は、一切禁止されている。
入口正面には愛染堂が建ち、その脇の参道を進むと本堂(薬師堂)、地蔵堂、鎌倉市手広から移築した旧内海(うつみ)家住宅などがある。このほか、境内奥には開山智海心慧と2世大燈源智の墓塔(ともに重要文化財)、鎌倉十井の一である「棟立の井」などがあるが公開されていない。
愛染堂-明治初年に廃寺となった大楽寺に所属していた堂。本尊の木造愛染明王坐像のほか、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像(各鎌倉時代)などを安置する。
本堂(薬師堂)-寄棟造、茅葺き。覚園寺は禅宗寺院ではないが、本堂の建築様式は当時流行した禅宗様である。ただし、内部は一般的な禅宗仏殿のように石敷きとはせず土間である。本尊薬師三尊像のほか、十二神将像、阿弥陀如来坐像(鎌倉市二階堂にあった廃寺理智光寺の旧本尊)、伽藍神像などを安置する。現存する本堂は文和3年(1354年)、足利尊氏によって建立され、その後火災には遭っていないが、江戸時代の元禄2年(1689年)に古材を再用しつつ改築に近い大修理が行われている。
尊氏建立当時の本堂は現在より規模が大きく、屋根も重層であったことが調査の結果判明している。なお、堂内天井の梁の下面には尊氏自筆の銘が残っている。(戦争中、軍部は覚園寺に対して、この尊氏の銘を撤去する様に圧力を加えたが、寺側はこれを拒否した。その為に戦争中、覚園寺は「国賊の寺」などと呼ばれ、付近の子供が寺に石を投げに来たと言う逸話が有る。こうした時代を乗り越え、この尊氏の銘を守った覚園寺の姿勢には尊敬に値する物が有ると言えよう)
地蔵堂-愛染堂背後に位置する小堂。本尊は黒地蔵の通称がある木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)である。
旧内海家住宅-鎌倉市手広から移築した江戸時代の名主の住宅で、墨書から宝永3年(1706年)の建築と判明する。
文化財
重要文化財
開山塔-開山の智海心慧の墓塔である石造宝篋印塔。正慶元年(1332年)の建立。
大燈塔-2世大燈源智の墓塔である石造宝篋印塔。開山塔と同じく正慶元年(1332年)の建立。
木造薬師三尊坐像-当寺の本尊。中尊薬師如来は腹前に両手を組んだ上に薬壷を乗せる、比較的珍しい印相を結ぶ。脇侍像は脚をくずして安坐した姿に表わす。がっしりした体躯の中尊像と女性的な顔立ちの両脇侍像とは作風が異なっている。中尊像については、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝~室町時代の作と推定されている。両脇侍のうち、日光菩薩像は像内銘から応永29年(1422年)、仏師朝祐の作であることがわかり、月光(がっこう)菩薩像も日光菩薩像と同時期・同人の作と推定される。
木造十二神将立像-薬師三尊の脇侍像と同じく、仏師朝祐の作。2005年度、重要文化財に指定。
木造地蔵菩薩立像-通称黒地蔵。地蔵堂安置。鎌倉時代。
覚園寺文書(97通)
開山塔納置品・大燈塔納置品 一括-開山の智海心慧と2世大燈源智のそれぞれの墓塔内部に納められていた、古瀬戸壷、銅製五輪塔などの一括。
史跡
境内が「覚園寺境内」の名称で1967年(昭和42年)6月22日、国の史跡に指定されている。
0 件のコメント:
コメントを投稿