習志野は現在、千葉県北西部にある住宅都市の地名です。実は、この「習志野」の名付け親は明治天皇なのです。
この地は、元下総国千葉郡小金原の一部で大和田の里と呼ばれ、江戸時代は幕府直轄の牧場の一部でしたが、明治4年牧場が廃止され軍の演習地となりました。明治6年の4月29日、明治天皇は演習を御覧になられるため、自ら2800名の近衛兵を率いて将兵と共に2日間野営をなされ、将兵の苦労をご体験されたそうです。
その演習の中で特に指揮官の指揮ぶりは素晴らしく、指揮官の元で近衛兵が規律正しく行動した様子を御覧になった明治天皇は、ことのほかご満足なされました。その時の指揮官をしていたのが、篠原國幹(しのはら・くにもと)陸軍少将でした。
天保7年(1836)12月5日に薩摩(鹿児島県)に生まれ、少年の頃から藩校造士館に学んで頭角を現し、文久3年(1863)に薩英戦争において戦いに加わり、明治元年の戊辰戦争には小銃三番隊長として活躍し、明治2年には鹿児島常備隊の隊長、4年には御親兵の大隊長となり、5年7月には近衛局出仕を兼ね陸軍少将になった人です。
この演習後の5月13日に、明治天皇は篠原少将を皇居へお召しになられ、今より後は演習した場所を「習志野原」(「習篠原」=「篠原に習え」の意味)としなさいと仰せられ、以来この地は習志野と呼ばれるようになったのです。
明治天皇の御製に(明治20年)
「夏草も 茂らざりけり もののふの 道おこたらず ならし野の原」
があります。この習志野原が、明治6年陛下が御統監になられて以来、草が生えないぐらいもののふ(武勇をもって仕え、戦陣に立つ武人)たちが、たゆまず演習していることをお詠みになられたお歌です。
「習志野」の由来のもう一つは「兵を習わせよ」と言う言葉から出たという説であり、大方の意見はこちらという事になっている。他にも、平坦な地=「ならした野」という説等もある。
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