京都府の北部に位置する丹波・丹後には、大陸からの渡来文化が入り日本古代史のポイントとなっている。
「王国」形成時代は、日本海対岸の情勢は日本列島の渡来集団に有利であり、大陸および朝鮮半島と列島間の往来は盛んで、出雲、丹波など山陰地方は日本の表玄関であった。かつての日本海側を表玄関とすると、有馬・播磨が向こう側という事になります。
「丹波」は、アイヌ語で「タン・パ」となり「こちら側の岸」という意味です。「あちら側の岸」は「アル・パ」ですが「向こう側の・海の・浜」というしゃれた「アリ・ルル・ムイ」もあって、それが「有馬」アリマとなり、千島列島エトロフ島から九州までの海辺20箇所ほどの場所に、これらの地名に残っています。
「タニハ」(丹波)は、今の峰山町に残っている。また10世紀の百科辞典「和名抄」の山陰道の中にも、丹後の中にある「丹波」の訓読みを「タニハ」としている。アイヌ語の「タン・パ」が「タンバ」となり、文字が導入された時に「丹波」」と当て字をし、その訓読み「ニハ」をさらに「タニハ」としたものと考えられている。
朝鮮の伝承によれば、首相として新羅王を補佐した倭人の瓠公(ココウ)は、タバナから日本海を渡ってきた時、腰に瓢箪をつけていたので瓠公と名付けられましたが、この「タバナ」は「タンバ」と言われている。この地名は、一般的に有馬と対に使われる例が多く(ar-muy:もう一方の山、または入り江)と対抗しています。これも各地に類型がみられます。
ポリネシア語による解釈
丹波国は『古事記』では旦波、丹波と、『日本書紀』では丹波と記され『和名抄』では「太迩波(たには)」と訓じられています。元は但馬、丹後の両国を含む国でしたが、天武天皇13(684)年に朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(おくみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国を分割し、さらに和銅6(713)年に加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を統括しました。畿内に接し、山陰道最初の国で早く開化天皇の妃竹野媛の出身地として名が見えています。
この「たには」は
(1) 主基(すき)田の「田庭」から
(2)「タニ(谷)・ハ(端)」から
(3)「丹(水銀)」から
(4)「タワ(峠)」の転
などの説があります。
(1) 主基(すき)田の「田庭」から
(2)「タニ(谷)・ハ(端)」から
(3)「丹(水銀)」から
(4)「タワ(峠)」の転
などの説があります。
この「たにわ」は、マオリ語の「タ・ニワ」、TA-NIWHA(ta=the;niwha=resolute,bravery)、「勇者(の国)」、または「タ・(ン)ギハ」、TA-NGIHA(ta=the,dash,beat,lay;ngiha=burn,fire)、「盛んに・(銅、鉛、錫などの金属を精錬する)火を燃やしている(国)」(「(ン)ギハ」のNG音がN音に変化して「ニハ」となった)の転訛と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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