アナトリア半島のビテュニアやガラティアのように、後になってから何らかの理由で皇帝属州に併合された例は多かった他、複雑な例ではユダヤ地方のように、ヘロデ大王の息子のアルケラオスの時代に没収を受けてローマ直轄のユダヤ属州になった領土が、ヘロデの孫のアグリッパ1世の時代に同盟領主の彼の支配下に返還され、さらにアグリッパ1世の死後、息子のアグリッパ2世が若いという理由で再度没収され、成長してから少しづつ返還されていったというケースもある(フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XVII巻13章・第XIV巻5章と9章、第XX巻7章など参照)。
また、前述のヘロデ大王の妹のサロメが、いくつかの都市の支配権を継承したようなケースもあるが、領土の相続は原則男子のみに限られており、女子は基本的に継承権を持っていなかった。
このような考え方の相違から、プラスタグスが亡くなると彼の根回しは無視されるどころか、遺言を逆手に取られ王位と財産の半分はローマ皇帝の物とされた上で、娘たちへの相続は無効と一方的に解釈されてしまい、それを口実に王国は征服されたがごとく帝国に編入されてしまった。
領土や財産は有無を言わさず没収され、重税を課され、貴族たちは奴隷のように扱われた。タキトゥスの記述によると、ブーディカは鞭打たれ、元首のはずの娘たちは陵辱された。
一方ディオは、これらの背景にはルキウス・アンナエウス・セネカを含むローマの財政官たちが、負債返済を目的に暗躍した結果だと伝えている。タキトゥスは、そこまであからさまに述べてこそいないが、奢侈な生活を好んだ行政長官デキアヌス・カトゥスが重ねた帝国からの借金について触れ、似たような背景の存在を暗に匂わせている。
蜂起
60年から61年頃、当時の総督だったガイウス・スエトニウス・パウリヌスが、軍を率いてブリタンニアの抵抗勢力が立て篭もるドルイドの要塞があった北ウェールズのモナ島鎮圧に当たっていた時を狙い、イケニ族はトリノヴァンテス族など近隣の部族とともに蜂起し、ローマへの反乱の口火を切った。彼らは、トイトブルク森の戦い(9年)で、ライン川北部からローマを追い出したケルスキ族の王子アルミニウスや、やはりガイウス・ユリウス・カエサルのローマ軍を追いやった彼らの祖先の故事に倣おうとしたと思われる。
ディオによると、反乱軍のリーダーに選ばれたブーディカは、懐に忍ばせた野ウサギを逃し、それが走り去った方向から吉凶を占う儀式を執り行って、ブリタンニアの勝利の女神アンドラステへ祈りを捧げたと伝わる。この様子をディオは以下のように伝えている。
ブリタンニア人に対し演説するブーディカ(ジョン・オピー作)
"Let
us, therefore, go against (the Romans), trusting boldly to good fortune. Let us
show them that they are hares and foxes trying to rule over dogs and
wolves." When she had finished speaking, she employed a species of
divination, letting a hare escape from the fold of her dress; and since it ran
on what they considered the auspicious side, the whole multitude shouted with
pleasure, and Buduica, raising her hand toward heaven, said: "I thank
thee, Andraste, and call upon thee as woman speaking to woman..."
「これにより、私たちを(ローマ人へ)向かわしめ、勇ましさと幸ある未来をご信託ください。彼奴らが、犬や狼を御そうとする野ウサギか狐であることをお示しください」
彼女(ブーディカ)は祝詞を終えると、衣の襟を開いて野ウサギを放ち、予言の儀を執り行った。野ウサギは吉を兆す方へ駆け、群集は歓喜の声をあげた。ブーディカは掌を天に高く掲げつつ述べた。「アンドラステの神よ、感謝を捧げます。ひとりの女として、女性である貴女へ…」
この儀礼が、彼女ブーディカの名に「勝利」の意味を含み持たせたと考えられている。
反乱軍は、ローマの植民地とされていた、かつてのトリノヴァンテス族の首都カムロドゥヌムを最初の標的とした。そこはローマの退役軍人が築いた都市であり、先住民の私財と強制労働によって建てられた前皇帝クラウディウスを祭った神殿があったことも、反乱軍の憎悪を掻き立てる原因となっていた。住民は行政長官カトゥスに軍の増強を要請したが、彼が送ったのはわずか200人程度の予備役隊だけだった。
ブーディカ軍は、不満足な防衛線しか敷けなかった都市を攻め、神殿に篭城する残存勢力を2日間で落とし、その勢いのまま都市そのものを破壊した。後に総督となるクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスは、第9軍団ヒスパナを動員して都市の奪回に挑んだが、ブーディカ軍に大敗する結果となった。歩兵隊は壊滅し、指揮官とわずかな騎兵だけが脱出を果たしたに過ぎず、カトゥスも這々の体でガリアに遁走した。
反乱の知らせを受けたスエトニウスは、ロンディニウムを目指しホスタイル領を貫くワトリング街道を急ぎ進んだ。ブーディカ軍次の標的となったロンディニウムは、43年のクラウディウスの遠征以降に成立した比較的新しい町ながら、商人や旅行者などからローマの仕官らも数多く滞在していたであろう、活気に満ちた商業都市に成長していた。
スエトニウスは当初こそ市街戦を想定したが、自軍が数に劣る点やペティリウス敗戦の報を考慮し、大局的な視点からロンディニウム防衛を諦めた。こうして繁栄した都市は見捨てられて反乱軍の手に落ち、その全てが燃やし尽くされた。市民は、スエトニウス軍の許まで逃げ延びた者を除き、残らず虐殺された。現代のロンドンに当たるこの地からは、硬貨や陶磁器類を含んだ60年前後に堆積したと推測される酸化物が厚く積み重なった赤色層が考古学的発掘作業によって発見され、この故事を科学的に裏付けている。
出典 Wikipedia
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