カムロドゥヌム、ロンディニウムに続き、反乱軍は続いてウェルラミウム市に攻め入った。この3都市は例外無く廃墟と化し、7万とも8万とも言われる人々が惨殺された。タキトゥスによると、ブリタニ人たちは、捕虜を奴隷として使役することや人身売買などに出すことには全く関心を寄せず、ことごとく絞首刑・火あぶり・磔などの虐殺に掛けた。
ディオによる記述は、より凄惨さを極める。ある貴婦人は乳房を切り取られ、それを無理やり口に押し込まれた上で、吐き出さないよう唇を縫い合わされ、鋭い杭の上に突き刺された。それは、女神アンドラステが宿るとされる木立のような、本来神聖とされる場所をあえて選び行なわれた、儀式に捧げる生贄か、饗宴のお飾りか、もしくはふざけた遊びのおもちゃとして、弄ぶかのようなものだったと述べている。
ローマの反撃
ロンディニウムやウェルラミウム市民を犠牲にして時間を稼いだスエトニウスは、彼が率いる第14軍団ゲミナに第20軍団ウァレリア・ウィクトリスからの派遣隊を加え、さらに可能な限りの予備役隊との合流を果たして戦力の増強に成功した。第2軍団アウグスタのポエニウス・ポストゥムスこそ集結に呼応しなかったが、それでもスエトニウスは約10,000人の兵を配下に置くことができた。彼はウェスト・ミッドランズ州のいずこかと推測される、ワトリング街道が狭窄になっている場所に部隊を配置する作戦を取った。
一方のブーディカは、ディオの記録によると二人の娘を脇に従えつつ、チャリオット上から既に約230,000人程まで膨らんだ反乱軍を指揮していた。タキトゥスによると、ブーディカは財産を奪われた貴族としてではなく、自由を奪われ、理不尽に鞭打たれ、娘たちの純潔を踏みにじられたことに復讐を誓った只の人として、ここにいると語ったとされる。また、正義は我々にあり、神とともにあり、先の闘いで軍隊を撃退したことがそれを証明しているとも宣言した。また彼女は、男性は隷属の屈辱に耐えて生き延びる道を選ぶこともできるであろうが、女性である自分は勝利もしくは死の選択しか残されていないとも語った。
ブーディカ軍とスエトニウス軍は、ワトリング街道にて対峙した。圧倒的な数を誇った反乱軍ではあったが、装備の貧弱は否めなかった。対するローマ側は訓練され熟練した兵士と先進的な武器が物を言い、有利な立場にあった。街道の狭い部分を戦場に選んだスエトニウスの作戦も的中し、反乱軍は数の優位を生かすことができなかった。戦いの口火が切られてもローマ軍は無闇に進軍せず、殺到するブリタンニアの大軍に無数のピルムを投擲した。槍を使い果たすと、ローマ軍は勢いを取り戻したブーディカ軍を開けた地へ巧みに誘いこんだ。
ローマ軍がV字編隊を組んで進撃すると、ブリタンニア側はこれを避けようと動いた。しかし反乱軍は、彼ら自身の家族が控えるために戦場の後方に弧形に配置していた荷馬車群に阻まれ、攻撃を回避できずことごとく倒された。タキトゥスは、ローマ側の犠牲者がほんの400人程度だったのに対して「ある報告によると、約8万人の反乱軍兵士が倒された」と語り、ブーディカは毒を服して死を選んだという。ディオは異を唱え、彼女の死は病気によるもので、荘厳な埋葬が行なわれたと記している。
ブーディカが亡くなった後、行政長官に着任したガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラッシキアヌス(en)は、ブリタンニアへの締め付けを厳しくするスエトニウスを批判した。これに皇帝ネロの解放奴隷政策が相まって、査察を受けたスエトニウスは罷免、後任のプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスによる穏健策が取られた。以後、ローマのブリタンニア支配は410年まで続いた。
ブーディカが、現在のキングス・クロス駅8,9,10番ホームの下に埋葬されているという、長く言い伝えられている都市伝説がある。元ネタは、この駅が建てられた場所が、ブーディカが自決し埋葬されたと言う伝承が残るバトルブリッジ村だったことにあると思われている。この噂は、今や誤りまたはデマとされているが、1937年Lewis Spenceの本『Boadicea
- Warrior Queen of the Britons』や、それ以前から囁かれていた噂らしい。
現在では、バトルブリッジの名はBroad
Ford Bridge、すなはち幅の広いフォード橋が訛ったものと考えられている。ブーディカの埋葬地については、他にハムステッドのパーラメントヒル、またはサフォーク州などという噂もあるが、現在のところ正確には判明していない。
原典
古代ローマ時代を生きた、最も重視される歴史家のひとりタキトゥスは、ブリタンニアに対し特別な興味を抱いていた。これは、彼の義父に当たるグナエウス・ユリウス・アグリコラが3度にわたり当地に赴任し、スエトニウスの軍事参謀として対処したブーディカの反乱について、詳細をタキトゥスに伝えたためと考えられる。
カッシウス・ディオはブーディカの故事について概略のみしか知りえなかったはずで、詳細に亘る記述の情報源は不明である。彼の記述は、タキトゥスのそれに準拠しつつ、全体の経緯を簡略化し、かつローマ財政官たちが負っていた債務のくだりなど、個別の事件について詳細を加えている。
529年頃、聖ギルダスが著作『ブリンテン島の滅亡について』(De Excidio Britanniae)でブーディカについて著述し、彼特有の変わった見方で「裏切りの雌ライオン」とほのめかしている。ただしこれは、ギルダスがローマのブリタンニア遠征に関する正確な知識を持っておらず、確たる評価には及んでいなかった可能性を否定できない。
出典 Wikipedia
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