2019/11/16

胎動 ~ ブーディカ(1)

ブーディカBoudicaまたはBoudicca、過去にはBoadiceaなどとの表記も。日本語でもボウディッカ、ボアディケア、ボーディカ、ブーディッカ、ボアディシア、ヴーディカなどと訳される。生年不詳 – 60/61?)は、現在のイギリス、東ブリタンニア、ノーフォーク地域を治めていたケルト言語圏域のケルト人イケニ族の女王である。夫プラスタグス王の死に乗じて王国を奪った(少なくとも彼女は、そう判断した)ローマ帝国に対し、数多くの部族を纏め上げ大規模な反乱を起こした。

60年から61年頃、ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督率いる軍がウェールズ北部のモナ島(現在のアングルシー島)で戦闘に当たっていた機に乗じ、ブーディカはイケニ族やトリノヴァンテス族らを率いて反乱を起こし、トリノヴァンテスの故地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)奪回や各地のローマ帝国植民地を次々に攻略し、クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスが率いたローマ軍第9軍団ヒスパナを打ち負かした。さらにブーディカ軍は、市制が敷かれて僅か20年のロンディニウム(現在のロンドン)を破壊し尽くし、さらにはウェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)にも攻め入り、数万人もの人々を殺戮した。当時のローマ皇帝ネロは軍の撤退を決断したが、最終的にブーディカはワトリング街道の戦いでスエトニウスの戦略の前に敗れた。

これらの出来事は、歴史学者タキトゥスとカッシウス・ディオによって纏められていた。一時は忘れられていた、この歴史書はルネッサンス時代に再発見され、ビクトリア朝の時代には当時の女王ヴィクトリアと同じ意味を有する名を持つ伝説の女王として、ブーディカの伝記は広く知れ渡った。それ以降、ブーディカはイギリスの重要な文化的象徴として認知されている。

ブーディカの名
20世紀後半まで、「戦いの女王」を意味したブーディカの名はBoadiceaと記されていたが、これは中世にタキトゥスの原稿から写本が作成された際に、スペルの記入ミスが残ったものと推測されている。他にも、タキトゥスの著作にはBoudicea、ディオの著作にはΒουδουικα、ΒουνδουικαやΒοδουικαなどの表記も散見される。現在では、勝利(=Victory)を意味するケルト語の*boudaもしくは古代ケルト語の*boudīkoの元であり、これらの単語から派生したと考えられるアイルランド語のbuaBuaidheach、ウェールズ語のbuddugなどの共通の語源だったものと考えられる点から、BoudiccaもしくはBoudicaが本来の綴りだったとの仮説が主流となっている。なお、碑文などを辿るとブーディカの綴りは、ルシタニアではBoudica、ボルドーではBoudiga、ブリタンニアではBodiccaとも表記されている。

言語学者のケネス・ジャクソン(en)は、ウェールズ語やアイルランド語に基づき、正しい綴りをBoudica、発音を[bɒʊˈdiːka:]と結論づけた。ただ、しばしば使われる発音[ˈbuːdɪkə]もほぼ慣用化している。

生涯
タキトゥスとディオの揃った見解によると、ブーディカは王族であろう高貴な氏の出身であるという点で一致している。ディオは「ブーディカは知性溢れる女性であった」と述べるとともに、背が高く、腰下まで伸ばした赤い髪を靡かせ、荒々しい声と鋭い眼光を持っていたと表現している。トルク(ケルト人が好んで身に付けた、金属製の太い首輪状の装身具)と推測される大きな金製のネックレスを常に身に付け、色鮮やかなチュニックのブローチで留めた厚手の外套を羽織っていたとも言う。また、装飾も宝石など豪華なものを用いた様で、ブーディカが身に付けたと言われるオーナメントも伝わっている。

胎動
彼女の夫プラスタグスはイケニ族の王であり、現在ではノーフォークおよびその近郊あたりと推測される地域に居住していたと考えられる。そこはローマ直接の支配が及ぶ範囲には位置せず、43年にはグレートブリテン島に遠征していた皇帝クラウディウスのローマ軍と同盟関係を結び「同盟領主(rex socius)」となることで、彼はその土地の支配権を認められ独立を維持していた。彼らは、47年にローマ長官プブリウス・オストリオス・スカプラが脅迫的に武装解除を迫った時にも、反乱を持って応える程の力を有していた。当時としては際立った長命を誇ったプラスタグスではあったが、彼はその死後を憂い、ローマ皇帝をブーディカとの間に生まれた二人の娘との共同統治者に立てることで、王国の平安を維持しようとした。

しかしブーディカの夫に限らず、同盟領主の地位は完全な独立国の王とは違い、以下のような制限がかけられていた。

・同盟領主同士や他勢力の国と独断で戦を始めてはいけない、ローマ自身に戦がある場合は援軍を提供する義務があった。
・他の国家と同盟を結ぶことは禁じられた。
・貨幣の鋳造権は銅貨は自由にできたが銀貨は制限があり、金貨はほぼ認められなかった。
・元老院の確認の有無にかかわらず、帝政期には皇帝の明確な勅許なしでは王の権利を行使したり王を名乗ってはいけなかった。
・王の称号は本人のみ有効で、死亡すると消滅する。(領主として問題があるとされた場合は、存命でも剥奪されることがある。)

この最後の掟のため、同盟領主の地位は建前上は世襲ではなく、大多数の子供が後を継ぐ場合でも再度、皇帝から同盟領主の勅許を受ける必要があったのだが、子供が居ない場合や居ても領主としての能力がないと判断されると、領土の一部だけ支配を許されたり、傍系の人物や血縁のない人間が次の同盟領主に選ばれたり、場合によっては総督が来てローマ帝国の直轄支配になるケースがザラにあった。
出典 Wikipedia

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