ディオゲネスの迷信批判
「知性や理性」を大事にするディオゲネスが、当然でしょうが「迷信や占い、秘儀の類」を侮蔑していたことも伝えられています。
例えば、秘儀に与り死後の幸福をと説いた人に対して
「立派な行いをした人物が“秘儀に与っていない”ということであの世で泥土の中に落とされ、下らない人生を送った人間が“秘儀を受けた”ということで幸せになるというのでは、随分と笑うべき事ではないか」
と言ったとか、ある人が身を清めているのを見て
「君が身を清めたからといって文法上の誤りが拭えないのと同様、人生上の誤りから免れることはできないのだ」
と言ったとか、あるいは「夢見が悪かった」といってクヨクヨしている人に
「目覚めている時の行為には少しも注意をしないのに、寝ている時の幻について大騒ぎをするのか」
と言ったとか伝えられています。
社会に噛み付くディオゲネス
こんな具合に「噛み付き」は当然プラトン達インテリに対してだけではなく、むしろ世間一般の人々に対して行われていました。よく紹介されるのが「白昼ランプをかざして、人間を捜している」といいながら、あちこち歩き回ったというものです。もちろん、この「人間」というのは「知性と理性をもって有徳に生きている人」を指しています。
同様の趣旨のものとして、彼が「オーイ人間よ」と呼びかけたので大勢の人が集まってきたところ、彼は杖を振りかざし「俺が呼んだのは人間であってクズではない」と言ったとか、あるいは彼が公衆浴場から出てきた時「人は多かったかい」と聞かれた時には「いいや」と答えたが「混んでいたかい」と聞かれた時には「うん」と答えたとか、オリュンピアから帰った時、大勢集まっていたかいと聞かれて「ああ大勢だった、だけど人間は僅かしか居なかった」と答えたとか、たくさんあります。
これはどうも「同胞であるアテナイの市民」に対してのもので、スパルタの人々は立派な人々と見なしていたようです。例えば、ギリシャのどこに優れた(むしろ勇気あるというべきかもしれませんが、両者は同じ内容を持っています)人間がいるかと問われて、優れた人間なら探せばどこの地にもいるだろうが、「優れた子どもたちならスパルタで見られる」とか、彼がスパルタからアテナイに戻ろうとしていた時、どちらへ行くのですか、またどこから来たのですかと問われて「男部屋から女部屋へいくところだ」と答えたとか伝えられています。
スパルタは尚武の国として質実剛健を旨とし、人々は非常に質素な生活をしており口数も少なく、また肉体の鍛錬に日を費やし、秩序正しい生活をしていましたから、ディオゲネスには当然気に入ったでしょう。しかし、彼は自分の気にいった土地で安楽に暮らすのが目的であったわけではなく、人々に「人間の真実」を伝えようとしていたので、スパルタに居を構えることはしなかったのでした。
ディオゲネスの皮肉
そして、ディオゲネスは人々に「皮肉な態度」で迫っていったのでした。例えば、真面目で真剣な話しには人々は集まってもこず、下らない話しだとワッと集まってくるのを見て「人々は下らぬ話題には真剣に、真面目な話しにはノロノロだ」と言って咎めたり、人々は競技だと目の色を変えて真剣になり全力を尽くすのに「立派な良い人間になるということについては、誰一人競い合おうとしない」とか、文献学者はホメロスの英雄「オデュッセウス」の落ち度については色々探し求めるのに「自分自身の落ち度については、全然探そうともしない」とか、音楽家は琴の調子は合わせるのに「自分の魂の調子は、不調和なままにしている」とか、天文学者は天のことには目を向けるけれど「自分の足下のことは気にもかけない」とか、弁論家は「正義」について論ずるには熱心だけれど「少しも正義を実行しようとはしない」とか、人々は金持ちより正しい人の方が立派だと賞賛しながら、他方で「金持ちを羨ましがっている」とか、健康を神々に祈りながら「山ほどのごちそうをたいらげたりしている」とか、何時の世にも尽きない話で一杯です。
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