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悲劇性を決定づけた『漢宮秋』
この悲劇性を決定づけたのが、元曲『漢宮秋』です。「元曲」とは宋代に始まり、元代に盛んになった中国式歌劇のことで、『漢宮秋』は元曲の有名な芝居名です。劇作家・馬致遠(1250頃~1321頃)の作。
では、ざっとあらすじを追ってみましょう。
前漢は元帝の時代、後宮に美女が少ないというので、画家・毛延寿は帝の命を受け美女探しの旅に出ます。そこで出会った王昭君はたいへんな美少女でしたが、この画家から賄賂を求められ、貧しさからそのお金を出せなかったことで醜く描かれてしまいます。
美しく描かれなかった王昭君は、宮廷に入った後も元帝の目にとまることはなかったのですが、ある日元帝は城内を歩いている時に、彼女が琵琶を弾いているところに出くわします。こうして王昭君は元帝の妃となり、寵愛を受けるようになります。
このことを知った画家・毛延寿は、自分の悪事がバレるのを恐れ匈奴に逃亡します。そこで単于に王昭君の美しい肖像画を見せ、この美しい妃を手に入れるようそそのかします。この策略にのった単于が漢を攻め、元帝に王昭君を差し出すよう要求します。元帝は泣く泣く愛妃・王昭君を彼に渡すのですが、彼女は匈奴に行く途中、黒河(エチナ河)に身を投げてしまいます。
なぜ悲劇として描かれたのか
こうして芝居の中の王昭君は史実とは異なり、匈奴に着く前に自殺してしまうのですが、なぜこのような虚構が作られたのか、様々な論議をよんでいます。
王昭君のように、遠い敵国に戦略的な道具として送られる女性は古来たくさんいました。悲劇的な人生を送った人もいたでしょうが、幸せな人生を送った人もいたことでしょう。
その中で史実からは特に悲劇性を感じられない王昭君だけが、悲劇のヒロインとなっているのです。そしてこの物語は、ヨーロッパや日本にも伝えられています。
ある学者は、この作品が宋滅亡後の元で漢民族の劇作家によって書かれているところから、異民族の侵略から国を守れなかった宋末期の支配者たちのふがいなさへの当てつけ、批判として書かれたのではないかととらえています。
そういう狙いがあったとして読んでいくと、まさに売国奴であった画家の描き方や、王昭君の悲壮さが納得できます。
李白の詩『王昭君』
では最後に、王昭君をうたった李白の詩を、書き下し文・現代語訳で紹介しましょう。
李白の詩『王昭君』の原文
『王昭君』 李白
漢家秦地月
流影照明妃
一上玉関道
天涯去不帰
漢月還従東海出
明妃西嫁無来日
燕支長寒雪作花
蛾眉憔悴没胡沙
生乏黄金枉図画
死留青塚使人嗟
李白の詩『王昭君』の書き下し文
『王昭君』 李白
漢家秦地の月
流影明妃を照らす
一たび玉関の道に上り
天涯去って帰らず
漢月は還また 東海より出ずるも
明妃は西に嫁して来たる日なし
燕支とこしえに寒くして 雪は花となり
蛾が眉び憔悴して 胡沙に没す
生きては黄金に乏しく枉まげて図画せられ
死しては青塚をとどめて人をして嗟なげかしむ。
李白の詩『王昭君』の現代語訳
『王昭君』 李白
漢代に長安を照らした月
流れる月の光は明妃・昭君を照らす
ひとたび玉門関・シルクロードの関を越えるや
彼女が再び戻ってくることはなかった
漢代の月はまた東の海から昇るが
明妃・昭君は西域に嫁して二度と戻ることはない
ルージュを産す燕支の山は永遠に寒さに閉ざされ
雪は舞い降りて花のよう
美しい眉はやつれて蛮族の砂漠に没した
生きていた時は貧しかったことで美貌を描かれず
死んでは青塚とよばれる墓を残し見る者を嘆かせる
王昭君のお墓が、なぜ「青塚」と呼ばれるかというと、他の草が白くなる時期に、この墓に咲く草だけは青々としているからだそうです。
王昭君のお墓は、内モンゴルのフフホトにある以外にも複数あるのですが、それらのうちどれが本当の王昭君の墓なのか、考古学の発掘調査や研究成果を待っている段階だそうです。
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