2019/11/23

アリストテレス(1) ~ 万学の祖

アリストテレス(アリストテレース、古希: ριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384 - 32237日)は、古代ギリシアの哲学者である。

プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は、古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。

アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア(Philosophiaと呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「」を意味する。この言葉が、ヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。

アリストテレスは、これらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは、知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている

名前の由来は、ギリシア語の aristos (最高の)telos (目的)から。

アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。殆どが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため、簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、アレクサンドリア図書館が建設され資料を収集し始めると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。

この資料は、およそ2世紀後の紀元前1世紀に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料は、ペリパトス学派の11代目学頭であるロドス島のアンドロニコスによって、紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、我々に残されている記述は、アリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。

アリストテレスは「論理学」が、あらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した

アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が中世を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これが、後にガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界は、アリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに、誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで、近代科学の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。

アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の近世を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらず、それが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある。
出典 Wikipedia

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