2019/11/21

趙飛燕

趙飛燕 - Zhao Feiyan2Wikipedia  site:nipponkaigi.nethttps://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20180508waseda.html

前漢の成帝と趙姉妹

前漢の第11代皇帝・成帝(51年~前7)と、皇后・趙飛燕、その妹・趙昭儀(後世「趙合徳」の名前で呼ばれる)の関係は、正史『漢書』や稗史(はいし)『趙飛燕外伝』によって、後世に大きな影響を与えた。

 

夏目漱石『文学論』序「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短かきにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。」

 ※「左国史漢」=漢文の歴史書『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』のこと。

 

趙飛燕の肖像画

残念ながら、彼女の同時代の肖像画は残っていない。趙飛燕のイメージ写真ではないが、鳥のように軽やかな舞姫、というイメージの現代中国の写真作品の例がある。

 

『漢書』卷九十七下 外戚傳第六十七下より

(要約)漢の成帝の皇后となった趙飛燕の出自は、いやしかった。彼女は宮中の雑役の夫婦の子だった。生まれたとき、両親は育てるつもりがなく、放置した。三日間放置しても生きていたので、育てられた。その後、皇族の陽阿主の家で、歌手兼ダンサーとして仕込まれ、「飛ぶツバメ」という芸名を名乗った。

 

漢の成帝は、おしのびで出かけて遊ぶことを好んだ。成帝は、趙飛燕を気に入り、後宮に入れた。飛燕の妹(後世の伝承では「趙合徳」と呼ばれる)も、後に後宮に入れた。この美人姉妹は、成帝の寵愛を独占した。

 

成帝には、もともと許皇后がいたが廃されていた。成帝は周囲の反対意見をおしきり、出自がいやしい趙飛燕を皇后とし、その妹を昭儀とした。やがて妹は、姉よりも皇帝に愛されるようになった。ただ、姉妹は十年余りも成帝の寵愛を得たものの、結局、成帝の子を産めなかった。

 

成帝は健康だったが、綏和2318(西暦に換算すると前7417)の朝、起床後にものが言えなくなり、その日のうちに亡くなった。民間では、趙昭儀のせいだという噂が広まった。成帝の生母である孝元皇太后(王政君)は、一族の王莽(後に皇帝の位を簒奪する)らに命じて真相を調査させようとした。趙昭儀は真相を語らぬまま自殺した。

 

成帝には、実子がいなかった(隠し子説、あり)。成帝の次には、趙飛燕の後押しもあって、哀帝が即位した。哀帝は、寵臣・董賢との「断袖」の故事で有名である。前7年に哀帝が25歳の若さで崩御すると、趙飛燕は王莽との政争に負けて失脚し、追い込まれて自殺した。

 

『趙飛燕外伝』より

妹に成帝の寵愛を奪われた姉の皇后は、悲しみにくれ、馮無方(ふう・むほう)という臣下と不倫関係に走った。

 

ある日、太液池(たいえきち)で、宴会が開かれた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた豪華な遊びだった。皇后は、昔取った杵柄で、船の上で踊った。成帝が壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は「いっそ仙人になって、飛んでゆきたい」という旨の歌を歌いつつ袖をひるがえして軽やかに舞い、風に乗って飛んでゆきそうに見えた。

 

成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないようにおさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた。後日、成帝のお手つきになった宮女たちの中には、スカートのひだをたたんでひも状にしたファッションを作るものがあり、それを「仙女になるのを引きとどめられたスカート」と名付けた。

 

李白:七言絶句「清平調」三首 其の二

一枝濃艷露凝香。

雲雨巫山枉断腸。

借問漢宮誰得似?

可憐飛燕倚新粧! 


唐の詩人・李白は、玄宗皇帝と楊貴妃の前に召されたとき、楊貴妃の美しさを漢の趙飛燕に喩え、それが一因となって宮廷を逐われた。

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