2024/03/30

乙巳の変(2)

蘇我入鹿暗殺

神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず政変の中心にたりえる人物を探した。

 

法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌足は、更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

 

乙巳の変には、大臣(オホマヘツキミ)・蝦夷の後継者が入鹿になったことに対する、蘇我氏同族の氏上争いといった側面も見られ、むしろ中臣鎌足が氏上と大臣の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍内麻呂を誘い込んだと見られる。また、中大兄皇子の狙いは、蝦夷と入鹿(蘇我氏本宗家)を倒すことを目的としていただけでなく、それまでの皇位継承の流れから考えると、同時に蘇我系王統嫡流の古人大兄皇子にもあったと考えられる。

 

皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として、暗殺の実行を決める(『藤氏家伝』大織冠伝には、三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。

 

612日(710日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。

 

佐伯氏は大伴氏の同族で、軍事で王権に仕えた氏族である。稚犬養氏は犬の飼養で王権に仕え、後に内蔵の管理にも当たった氏族であるが、「葛城」を冠しているところから、葛城地方に居住していた集団であり、本来は蘇我氏の影響下にある集団から、反本宗家の動きが出てきたと考えられる。いずれの氏族も、後の宮城十二門の守衛にあたる門号氏族であり、乙巳の変の際に「倶に十二の通門をさしかためて、往来はしめ」なかったのも、これらの氏族の協力があったと考えられる。

 

入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌足は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。

 

中大兄皇子は、子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は、入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。

 

しかし、有名なこの場面は、『日本書紀』や『藤氏家伝』の原史料の段階で作られた創作であると考えられる。「天宗を尽し滅す(皇族を滅ぼし尽くした)」というのは山背大兄王や上宮王家の討滅を指すのであろうが、それと自らが皇位と替わろうという野望を抱いていたと短絡させるのは論理的ではない。また、斬られた入鹿が開口一番に「皇位にあらせられるべきお方は、天の御子(天皇)でございます」と訴えるのもおかしな話であり、要するに、「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と「それを誅殺した偉大な中大兄皇子と、それを助けた忠臣中臣鎌足」という図式で、この出来事を描こうとしているのである。

 

入鹿からしてみれば、高句麗にならって権力を自己に集中させ、飛鳥の防衛に腐心して激動の東アジア国際情勢に乗りだそうとしていた矢先に、いきなり切り殺されてしまったことになる。斬られた後に叫んだという、「私が何の罪を犯したというのでございましょう」という言葉は、本当に発したものか否かはともかく、まさに入鹿の思いを象徴したものであると考えられる。

2024/03/29

楊 貴妃(2)

安史の乱と最期

天宝14載(755年)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。

 

翌天宝15載(756年)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。6月に玄宗は首都長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。

 

しかし、馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に到着すると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは、玄宗に対して「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言により、やむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。

 

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。この時、南方から献上のライチが届いたため、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられている。陳玄礼らによって、楊の死が確認され、遺体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。

 

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

エピソード

中国史におけるもっとも著名な女性であり、数多くの伝承が伝えられている。

非常に有名なエピソードとして、楊貴妃が日持ちの効かないレイシ(ライチ、茘枝)を大変に好み、産地の嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことが伝えられている。このエピソードは後述の通り、後世にも大きな影響を与えた。

 

『楊太真外伝』などに、開元28年(740年)に後宮に入った時から天宝14載(755年)までの、楊貴妃に関する多くの伝承が伝えられている。

 

『楊太真外伝』によると、楊一族の隆盛と横暴、玄宗の楊貴妃へのあまりの寵愛に「女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな」というはやり唄が長安で唄われ、玄宗と共にたびたび教坊の芸人たちの音楽・歌舞・技芸、あるいは文人たちの詩会を見て楽しんでいた。ある日、玄宗が諸王(唐王朝の一族)を招いて宴を行ったところ、木蘭の花の様子に玄宗が不興を感じていることを見て取り、酔いながらも霓裳羽衣の曲の舞を踊って取りなし、玄宗を喜ばせたことがあった。

 

別の日、玄宗が作曲を行った演奏会では琵琶を担当し、王や郡主(王の娘)、楊貴妃の姉妹はみな彼女を師とあおぎ、一曲作成するごとに多くの贈り物がなされた。この演奏会の時、謝阿蛮という妓女に与えた紅粟玉の腕輪は高句麗から得た宝物であった。

 

磬(打楽器の一種)の名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがなかった。彼女の琵琶はラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものであった。また彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もあった。また「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって世に広められたと伝えている。

 

興慶宮の沈香亭において、玄宗が李白に作詩させ李亀年に歌わせた「清平調詞」において、李白の詩に自分を趙飛燕にたとえた部分があった。このことを高力士に指摘され、侮辱と思い李白の官位授与を妨げた。そのため玄宗が趙飛燕の話題を避けた話や「そなたなら風に飛ばされない」とからかった説も伝えられ、楊貴妃が豊満であったのではという説の根拠となっている。なお、この話題を出した時、楊貴妃が「霓裳羽衣は舞えますのに」と不機嫌になったため、玄宗は「虹霓」という名の屏風を贈っている。

 

玄宗が毎年10月に華清宮(温泉宮)に赴き、その冬を過ごす時に楊貴妃が同じ輿に乗り、端正楼に住み蓮花湯という温泉に入っていたことも知られる。

 

他に玄宗とともに二つが合わさった蜜柑を食べて、その姿を絵に描かせた話や、嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話がある。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っている。

 

玄宗が親王と碁を打っている時、玄宗が負けそうになると狆を放して碁盤を崩し、玄宗に喜ばれた。また、つけ髷で髪を飾り、黄色の裙(長い裳)を好み、龍脳(香料の一種)をつけていたため遠くまでその香りがして、衣を通してその香りか領巾に移るほどであったとも伝えられる。

 

天宝14載(755年)6月、彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。

 

二日酔いに苦しんだ後、庭の花の露を飲んで肺を潤した説話、玄宗とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ました説話、豊満な肉体であったため夏の暑い時に口に玉でできた魚を入れて暑さを癒した説話がある。

 

また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっている。

 

『開元天宝遺事』によると、楊貴妃は夏になるとよく汗をかき、臭いを放っていた。汗を溜めた肌は赤く見え、拭うとその赤色が布に移ったという。

 

白居易の詩『新楽府』の一首「胡旋女」では、楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した舞を舞っていたという描写がある。

2024/03/28

楊 貴妃(1)

楊 貴妃(よう きひ、ヤン・グイフェイ)は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれている。世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされている。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性だった。また、才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られている。

 

生涯

以下、生涯についての記述は、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』によるものとし、それ以外は出典を表記する。

 

出生

蜀州出身。本籍地は蒲州永楽県。本貫を弘農楊氏とする一部史料もあるが、竹村則行は、「『太真外伝』に楊貴妃の出自を『弘農華陰人』とするのは全くの附会である。弘農楊氏といえば当世の名族であり、加えて玄宗の元献皇后楊氏が正真正銘の『華州華陰人』であるところなどから、混同や附会を招いたのであろうか。伝えられる三姉妹や楊国忠の粗野な言動からも、楊氏一族が名族の出身だとはとても思われない」と評している。

 

北魏の冀州刺史の楊順(楊播・楊椿の弟)の末裔にあたる。蜀州司戸の楊玄琰の四女。姉に後の韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人がいる。楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中の61日に生まれたと伝えられる。四川には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄の家で育てられた。

 

『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隠士が彼女の人相を見て、「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに又従兄の楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという説話が残っている。

 

『開元天宝遺事』によると、楊玄琰は若い頃に持っていた刀は、猛獣や盗賊が近づくと警告するように刀が音を発したと伝えられる。また、楊貴妃が父母と別れる時、寒い日であったので、涙が紅く凍ったという説話を伝えている。

 

生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、容州の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄琰に売られたという後世の俗説もある。

 

寿王妃から女冠へ

開元23年(735年)、玄宗と武恵妃のあいだの子の寿王李瑁(第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、開元25年(737年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官の高力士の薦めで李璵(後の粛宗)が皇太子に冊立された。

 

開元28年(740年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女道士(女冠)となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。

 

楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。

 

貴妃となる

天宝4載(745年)、貴妃に冊立される。『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。

 

父の楊玄琰は兵部尚書、母の李氏は涼国夫人に追贈され、また叔父の楊玄珪は光禄卿、従兄の楊銛(楊玄珪の子)は殿中少監、従兄の楊錡(楊玄珪の子)は駙馬都尉に封じられる。さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。楊銛・楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであったと伝えられる。

 

天宝5載(746年)には嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。この時、高力士はとりなして楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は太華公主の家を通じて夜間に後宮に戻ってきた。玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。それ以後、さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范陽・平盧節度使の安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

 

天宝7載(748年)には3人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられた。楊銛は上柱国に、また従兄の楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。

 

玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。

 

天宝9載(750年)にまた玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。しかし吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、それ以降さらに愛情は深まったとされる。

 

天宝10載(751年)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山を湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかし、その後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため醜聞が流れたという。

 

天宝11載(752年)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。

 

天宝13載(754年)、楊貴妃の父の楊玄琰に太尉・斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、叔父の楊玄珪は工部尚書に任命される。楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。

イスラム教(5)

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イスラム(教)(إسلام islaam)とは、世界三大宗教の一つに数えられる一神教の一つである。

 

正則アラビア語(後述)に従いイスラーム(教)と呼ばれることもあり、その言葉は「唯一のアッラー(神)への絶対的帰依」を意味する。ちなみに「平和」を表し、挨拶にも使われるアラビア語サラーム(سلام salaam)も、またイスラムと同語源であり、「神威の下での平安」というニュアンスを持つと同時に、アッラーの99の美称の一つ(つまり平和=神そのもの)である。

 

概要

いわゆるアブラハムの宗教の一つであり、ユダヤ教やキリスト教の流れを汲む。成立は西暦600年頃と主要宗教のうちでは比較的に新しく、セミリタイアして瞑想生活に入った名門商家ハーシムのご隠居ムハンマド(モハメッド、マホメッド、マホメットとも)が、40歳くらいの頃にメッカ近郊の山中にて、アラビア語で神から啓示を授かったことから始まるとされる。

 

信徒はイスラームの行為者形であるムスリム、つまり「唯一のアッラー(神)に完全に帰依した者」と呼ばれる。信徒数はキリスト教に次いで世界第二位の16億人。なお、キリスト教の最大信徒数を擁するローマ・カトリック教会は約11億人であるのに対し、イスラム教最大の宗派であるスンナ派(後述)は14億人以上いるとされ、宗派ごとにみればスンナ派イスラム教が世界最大となる。

 

ムスリムの分布はアラビア半島から西は北アフリカ、東は東南アジアまで広がっているが、最大のイスラム教国はなんと中東ではなくインドネシア。また近年では欧州全土、とくに南ロシアにおいて増加している。

 

なお、日本国内には外国人を含め10万人のイスラム教徒がいるとされ、さらに日本人のイスラム教徒も1万人程いるとされる。

 

宗派・派閥

ü  スンナ派

ü  シーア派

ü  ハナフィー学派

ü  ハンバル学派

ü  マーリク学派

ü  シャーフィイー学派

ü  ハワーリジュ派

ü  十二イマーム派

ü  イスマーイール派(七イマーム派)

ü  ニザール派

ü  ザイド派

ü  カイサーン派

ü  アラウィー派

 

イスラムはもともと同じ1つの宗派であり、開祖であるムハンマドを中心として広まっていったが、後に様々に分派しており、大きく分けるとスンナ派(スンニ派)とシーア派に分けられる。

分布や信徒数でいうならば、スンナ派の方が圧倒的な多数派である。シーア派は主にイラク・イランなどにおいて信仰されている。どちらの宗派も、さまざまな分派が生まれている。

 

なお宗派でルールが異なる。スンナ派の指導者は「小イマーム」「大イマーム」、最高指導者・正当後継者は"預言者の代理人"を意味する「カリフ」としているのに対し、シーア派においては"模範となる者"の意味を持つ「イマーム」が最高指導者として扱われる。

 

スンナ派では、イスラムの法解釈やルール決定を複数の法学者らによる合議で決めるので、代理人に過ぎないカリフには独断での法解釈やイスラム教の行く末を左右する権限はない。シーア派の場合は、最高指導者イマームは預言者の後継者であるため、イマームによる法解釈が正式なものとされている。

 

ただ、同じ宗派であっても各学派や系列によって解釈が異なり、たとえばスンナ派の場合、中世において棄教はハンバル学派など、ほとんどの学派で死刑とされてきたが、ハナフィー学派では禁固刑に緩和すべきとしていた。現代でも各学派や指導者によって解釈に差異があるほか、現在ではインターネットの普及により宗派を問わずインターネットの掲示板や質問サイト等に解釈を求める動きも認められる。

 

歴史

イスラムは、概要にあるとおり最初にムハンマド自身が神から啓示を授かり、その後家族や友人へと広がり、段々と勢力を伸ばしていった。ムハンマドが死んだときは、預言者の代理人として正当な指導者を選出するカリフ制度ができたといわれている。初代カリフには、彼の友であり近親以外の一番弟子であり(9歳の娘アーイシャをムハンマドに嫁がせたため)義父でもあったアブー・バクルが、共同体での合意により選出された。

 

しかしムハンマド個人に対する信義と忠誠を誓っていた派閥がアラビア各地におり、「俺らが忠誠を誓ったのムハンマドさんだから。お前じゃねーから。」とカリフ決定に納得せず離反しようとしたため、アブー・バクルはこれらと戦い鎮圧、イスラム教を再統一した。

 

分裂の危機にあったイスラム教だったが、初代カリフであるアブー・バクルの統一以降は2代目ウマル、3代目ウスマーンまでは少々不穏でありつつも再び勢力を拡大していった。

 

3代目カリフにはクライシュ族の有力な一門ウマイヤ家であるウスマーンが選ばれる。だが、自分の一族をメインにした政策ばかりとっていたため徐々にウマイヤ家への風当たりが強くなり、最終的にウスマーンは暗殺された。その後改めてカリフが選出され、ムハンマドの甥であるアリーが4代目カリフにつく。

 

だがアリーとの後継者争いに敗れた、ウマイヤ家のムアーウィヤが「ウスマーンが殺されたのはアリーの一派による陰謀」として報復を叫び、イスラム内で再び大きい対立が発生する。アリーが身内から分派した派閥ハワーリジュ派に暗殺されたことで、5代目カリフに就任したムアーウィヤは、東ローマ帝国との戦争で手に入れた自らが総督を務めているシリアに、世襲制の王朝を開いた。これにより世界最初のイスラム帝国であるウマイヤ朝が誕生する。

 

ウマイヤ王朝はその後、国家として体制を整え強大な国力を有するようになる。他の派閥も恭順を誓っていき、ウマイヤが多数派となったためアリーを失ったアリー派は少数派へと転落した。しかしアリー派は「4代目カリフのアリーと、ファーティマとの子孫だけがイスラムを導く資格がある」として、ムアーウィヤのカリフ就任を認めないスタンスを崩さず、アリーを支持する党派(シーア・アリー)がのちの「シーア派」に、慣行(スンナ)を重視するウマイヤを中心とした他の多数派が「スンナ派(スンニ派)」へと分裂していった。

 

ウマイヤ朝がカリフを選出ではなく世襲にしたことで、今までのイスラムの体制とは明らかに変質しているため、一般的には"正統カリフ"とされているのは第4代アリーまでである。ちなみにイスラムにおいて現在、正式に承認された最後のカリフは、オスマン帝国の皇太子であったアブデュルメジト2世(18681944年)。1922年のトルコ革命により共和制となり政教分離が行われた。その際にカリフ制も廃止された。

2024/03/22

乙巳の変(1)

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し、大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密には乙巳の変に始まる一連の政治制度改革を大化の改新と言い、乙巳の変は大化の改新の第一段階を言う。

 

乙巳の変の経過

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蘇我氏全盛の時代

推古天皇30222日(62248日)(同3025日説もある)、摂政・厩戸皇子(聖徳太子)が薨去した。聖徳太子の死により大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は皇室を凌ぐほどになった。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。

 

推古天皇34520日(626619日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇3637日(628415日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。

 

有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、山背大兄王は用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であり、加えて、このような皇族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁していることを嫌った故・推古や蝦夷などの支配者層は、田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させた。これが舒明天皇である。

 

蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。大派皇子(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。

 

舒明天皇13109日(6411117日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の勢力は、更に甚だしくなった。

 

皇極天皇元年(642年)7月、日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と皇室が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、皇室が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。

 

同年には、蝦夷は父祖の地である葛城の高宮に祖廟を造り、『論語』八佾篇によれば、臣下が行ってはならないとされる八佾の舞を舞わせたという。これは蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究では八佾の舞とは『論語』の中の存在であり、『日本書紀』でこの語が用いられているのは単なる修飾であるとされ、以上の出来事は単に蝦夷が父祖の地で祖先を祀る祭祀を行ったことを示す記事に過ぎないと指摘されている。

 

また、上の記事に続き、蝦夷と入鹿が自分達の寿墓(橿原市菖蒲町で発見された五条野宮ヶ原12号墳か)を造営し、「陵」と呼ばせ国中の民、部曲、さらに上宮王家の壬生部を造営に使役したことが記され、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、この記事も『礼記』や『晋書』などの漢籍が多く引用されていることなどから、実態はかなり異なるもの(臣下としての立場を超えないもの)であったと考えられている。

 

皇極天皇2106日(6431122日)、蝦夷は病気を理由に、非公式に「紫冠」を入鹿に授け大臣(オホマヘツキミ)とし、次男を物部大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)とされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば蘇我氏内部の氏上の継承はあくまで氏族内部の問題であり、冠位十二階から独立した存在である「紫冠」は、蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったとされる。

 

皇極3年(644年)には、蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門」、「谷の宮門」と称し、入鹿の子供を「王子」と呼ばせ、蝦夷の畝傍山の東の家(橿原市大久保町の橿原遺跡か)も含め、これらを武装化したとされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、「宮門」や「王子」という呼称は『日本書紀』の文飾であり、専横を示す記事と考える必要はないとされる。緊迫の度を増している東アジア国際情勢を考えれば、国政を司る蝦夷や入鹿が、飛鳥の西方の防御線である甘樫丘や、飛鳥への入り口である畝傍山東山麓の防備を固めるということは施政者として当然の措置であり、これらのことは蘇我氏主導による国防強化という政策であったことが考えられる。なお、「上の宮門」、「谷の宮門」のどちらかとされる甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥板蓋宮を見下ろすことはできない。

 

上宮王家の滅亡

皇極天皇2111日(6431216日)、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ入鹿は、巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。そこで側近の三輪文屋君からは、東国へ逃れて再挙することを勧められるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると採り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺。このことによって、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。

 

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには、敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。

 

また、入鹿に従い山背大兄王討伐軍の将軍となった巨勢徳太は、大化の改新後の政府で左大臣に任命されているほどの有力なマヘツキミであった。『日本書紀』で入鹿の独断が強調されているのは、「偉大な聖徳太子の後継者を独力で滅ぼした邪悪な入鹿」という人物像を作り上げるためであったと考えられる。

 

さらに、『藤氏家伝』によれば、山背大兄王の襲撃には、軽王(のちの孝徳天皇)など、多数の皇族が加わっており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

2024/03/21

安史の乱(3)

ウイグルによる唐征討計画

778年、ウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)自身も唐に侵攻する。翌779年、代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人官僚の進言でブグは唐に侵攻しようとするが、宰相のトン・バガ・タルカン(頓莫賀達干)がブグ・カガンとソグド人官僚を殺害し、アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(合骨咄禄毘伽可汗)として即位した。アルプ・クトゥルグ・ビルゲは対唐関係を修復した。またアルプ・クトゥルグ・ビルゲは、先代のブグ・カガンが信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人にも圧力をかけ、また国号を回紇から回鶻に変える。

 

チベット軍の動向

また、同779年には吐蕃・南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。しかし786年には敦煌を占領し、河西回廊を掌握。以後、タリム盆地南縁部へ進出する。

 

北庭争奪戦

789年にはチベット軍は、それまでウイグルに服属していた白服突厥やカルルクと連合し、北庭大都護府のあったビシュバリク(北庭)を襲撃し、現地のウイグル・唐軍に勝利する。ウイグル軍はモンゴリア地方まで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部もチベットに降る。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグルが勝利し、トルファン盆地を含む東部天山地方全域がウイグル帝国の領域となり、タリム盆地北辺がウイグル領、タリム盆地南辺がチベット領となった。

 

東方で奚・契丹の反乱が起きていたため、忠貞可汗(在位:789 - 790年)は頡于迦斯(イル・オゲシ)を派遣するが回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。その後、頡于迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく56万の兵で攻めたが大敗する。一方で葛邏禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。

 

791年、ウイグルは北庭を奪還、また唐軍と共に塩州・霊州へ攻撃を掛けて陥落させ、吐蕃の首領を捕えた。この後のタリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。

 

809年、吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻・唐の間の直道(参天可汗道)を遮断。

 

811年、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還と、ジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。840年頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和した。

 

813年、ウイグルが漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し、周辺も制圧された。821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。

 

三国会盟

821年、ウイグル・チベット・唐の間での三国会盟が締結された。この三国会盟については従来、チベットと唐の二国間での長慶会盟であることが通説であったが、近年、森安孝夫が敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言をパリで発見したり、中国の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と原州をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線で東西に走るゴビ砂漠がウイグルとチベットとの国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。

 

824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に漠南を奪還し河西地域を征服した。

 

自立した勢力の一覧

ここでは安史の乱、及びその後の混乱により自立した勢力を記す。

 

勢力名   存在年   本拠地   初代指導者          最後の指導者      鎮圧・崩壊

          756年〜763年、7年間      洛陽       安禄山   史朝義   唐・回鶻連合による鎮圧

秦→漢   783年〜784年、1年間      長安       朱泚       朱泚       李晟の反撃による長安放棄

          784年〜786年、2年間      大梁府   李希烈   李希烈   部下の陳仙奇による殺害

          880年〜884年、4年間      長安       黄巣       黄皓       朱温と李克用による鎮圧

 

日本への影響

このような唐の動乱の影響は、海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して、大宰府に警戒態勢の強化を命じている。

 

更に唐の対外影響力の低下を見越して、長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために、新羅征討は中止された)。

 

死者数

一部の学者は当時の国税調査の記録などから、安史の乱の死者数が唐の人口の3分の2にあたる3600万人に上ると概算している。しかし、戦乱によって国税調査システムが崩壊して正確な人口数が把握できなくなっていたため、記録上は3600万人が減少したからといって、その全員が死亡したとは限らない。スティーブン・ピンカーは、著書にて3600万人という死者数を引用し、当時の世界人口の6分の1が失われたと提示したが、議論の余地のある数だとも指摘している。ヨハン・ノルベリは、著書にて死者数は8世紀の世界人口の約5%を占める1300万人に及ぶと述べた。

2024/03/20

イスラム教(4)

https://timeway.vivian.jp/index.html

 手形や為替のような商業システムも整備されました。

 商業が発展すると、当然都市も発展する。

 都市はその中心にモスクがあります。モスクは礼拝所です。寺院に近いですが、正確には寺院ではない。信者が礼拝のために集まる集会所と言った方がよい。イスラムは偶像崇拝禁止ですから、モスクの中にも何もない。ただ、部屋の壁にメッカの方向を示すくぼみが作ってあるだけです。ご本尊やご神体をまつってある寺院ではない。

 

 もう一つ、都市の中心にあるのが市場です。バザールです。すっかり日本語になっているほどです。ここで、さまざまな取引がおこなわれる。

 それ以外に都市には、隊商宿、公衆浴場、公衆便所、賃貸アパート、貸店舗などが整備されていました。

 

 こういう都市の公共施設は、富裕な商人たちが拠出した信託財産によって維持されています。この信託財産のことをワクフという。だいたいイスラム教国の町にいくと、水飲み場とか噴水とかきれいにしてある。政府ではなく、町の富裕な商人たちのワクフで整備している。

 イスラムの教えに基づいて、お金持ちがワクフとか喜捨とかキッチリするならば、弱者救済や公共事業が民間でできるわけで、政府なんていらないようなものです。実際、イスラム世界の人たちにとって政府、国家は上から突然やってきて税金だけ取る不要なもの、という感覚が強いようです。よく言って必要悪というところ。

 ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していたわけですから、本来ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよいということになる。

 

 おまけですが、プリントにエジプトの研究所で働く女性の写真を載せておきましたが、これは、典型的なイスラム女性のイメージではないかな。

 全身を服で覆って、頭からすっぽりヴェールをかぶっています。肌はどこも露出していない。

 ただ、これは極端な格好で、インドネシアやマレーシアでは女性もここまで肌を隠してはいません。せいぜい頭髪をスカーフで覆っているくらいです。

 

 日本でもイスラム教に入信する人が増えています。多くはイスラム教徒の男性と結婚して改宗する女性のようです。

 数年前の新聞記事ですが、地方都市の女性がイランの男性と結婚してムスリムになった。で、戒律に従って頭髪をヴェールで覆って長いスカートと長袖の服を着てできるだけ素肌を見せないようにしていたの。この女性が免許の更新で警察にいった。免許の写真を撮る段になって、警官が「ヴェールを取れ」と彼女に言ったんですね。彼女は宗教上の戒律で頭のヴェールははずせません、顔はこのままでもわかるはずだから、このままで写真を認めて欲しいと訴えたんですが、聞き入れてもらえなかった。

 

 免許がないと困るので、泣く泣くヴェールをはずして免許の更新はしたのですが、後から考えるほどに腹が立つ。憲法で保証されている「信教の自由」を侵害されたと怒っているという記事。こんな事件も起きているんだね。

 ちなみに東京などでは同様の女性がたくさんいるようで、ヴェールを頭に着けたままで免許の更新を認めていると書いてある。

 

 それはともかく、なぜイスラムでは女性はヴェールをつけるのでしょう。

 イスラムでは人間は弱いものだ、という発想がある。人間は意志が弱いという前提で、イスラムの倫理は組み立てられている。先ほど、結婚の前に離婚の条件を決めておく話をしましたが、夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしているのです。人は弱いから。決して、永遠の愛は誓わない。

 

 同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つのです。

 弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す、ということらしい。面白い理屈です。

 だから、単純に女は引っ込んでおけ、という発想のファッションではないようですね。しかし、現代では肌を出すことができないことは、女性に対する抑圧だという意見がイスラム世界の女性からも出ているようです。

 

 実際のところ、こういう格好をしている女性はどんな感覚なのか。日本人女性でエジプトの大学に留学した人が、そのあたりを体験を含めて書いている。

 目をのぞいて全身を覆うと、気分的には楽になるそうです。男たちに見られるというプレッシャーから完全に自由になれる。逆にヴェールの内側から男をじろじろ見ても、誰にも気づかれることはないわけでしょ。それほど、悪いものではないらしい。あくまでも、その日本女性の感覚ですよ。

 

 イスラムでは一夫多妻で男は妻を四人持てるというのは有名な話です。あれも、男尊女卑の典型のように思われがちですが、ムハンマドとしては女性を保護するためだったらしい。

 イスラム以前のアラブ社会も一夫多妻で、男は何人でも妻を持つことができた。ムハンマドのイスラムは、それを四人に制限したのです。

 しかも、ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。これ、厳密に考えたら複数の女性を平等に愛するなんて不可能でしょ。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。ムハンマド自身もハディージャが亡くなるまでは、他に妻を迎えませんでしたね。

 

 それなら、はじめから一夫一婦制にすればよかったんじゃないか、という声も聞こえますが、ムハンマドがメディナに移住したはじめの頃は、イスラム教対メッカの戦争などでムスリムの男性は多く戦死しました。結果、未亡人がたくさん出現した。残った男たちに、彼女たちの生活の面倒を見させるために一夫多妻を認めた、というのが四人の妻を認めた理由です。

 

 また、公共の場では男女を一緒にしないのがイスラム世界では一般的です。先日イランの映画を見ていたら、小学校では男子と女子の登校時間が違うんだね。女子が帰宅してから男子が登校するの。

 イランではスキー場でもゲレンデが男女別になっていて、家族でスキーに行ってもお父さんとお母さんは別のゲレンデ、兄と妹も一緒には滑れないようになっています。銭湯みたいですね。

 

 最後に、サウジアラビアとかイランとか、女性が顔を隠すのが一般的な国では恋愛はどうなっているのでしょうか。

 イスラム教であろうと、年頃になれば女の子が好きになる。ところが、若い男が女の子と知り合う機会は全くない。町を歩けば女性とすれ違うけれど、容姿どころか年齢すらもわからないんだから、好きになりようがないです。まことに可哀想です。

 だから、結婚は親が決めたお見合い結婚が一般的らしい。

 

 それでも恋愛結婚も、あることはある。

 これはどういう場合かというと、ほとんどはいとこ同士です。親戚同士なら幼い頃から行き来があるし、顔を見ることができるわけですよ。だから、男の子にとって思春期になったときに知っている女の子といったら、いとこしかいないわけ。彼女しか知らないのだから当然、彼女を好きになる。男子と知り合う機会のない女の子にとっても事情は同じです。

 でも、彼女はヴェールの向こう側からしっかり比較検討していたはずです。

安史の乱(2)

唐・ウイグル連合軍による奪回戦

粛宗は、7572月には鳳翔にまで南進する。

 

7579月、葛勒可汗は葉護太子と将軍の帝徳ら30004000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王李俶(後の代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした。

 

唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。

 

75710月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて、燕軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は、車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。

 

郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は、賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。燕軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。

 

11月、広平王・僕射郭子儀・葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した。

 

7585月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグ・カガン)に冊立する。7594月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、次男の移地健が第三代カガンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である。

 

史思明の暗殺と乱の終結

この状況を見た史思明は唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人らが自分の殺害を計画していることを知ると、降伏を撤回し、7593月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし7612月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される。

 

7624月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する。

 

7628月、唐の代宗は安史政権の残党の史朝義を討伐するために、ウイグルのブグ・カガンに再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグ・カガンを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。

 

唐の使節劉清潭は、それに遭遇したので唐への侵攻を踏みとどまるようブグ・カガンを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた。

 

劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグ・カガンの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグ・カガンを説得したとされる。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。

 

76210月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、莫県に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。

 

なお、同76310月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。

 

その後

この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるため、反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は、地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。

 

唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)・契丹が台頭する。

 

河朔三鎮

河朔三鎮は、河北に設置された3つの藩鎮、即ち幽州節度使と成徳軍節度使・魏博節度使のことであり、安禄山及び史思明の部下であった軍人が節度使を務めた。これらの藩鎮は、管轄地域の戸籍を唐王朝に報告せず、徴収した税を自分のものにし、配下の役人や軍人の人事も勝手に行った。

 

この地域の歴代の節度使は、ソグド系突厥や契丹・奚の末裔であった。彼らは藩鎮における統治や、唐王朝との折衝を行うために科挙には及第したが、任用試験を通らなかった者を登用した。

 

幽州節度使は、後に契丹が建国した遼へと継承され、成徳軍節度使と魏博節度使は五代十国時代の国家のうち、突厥の沙陀族が支配者となった後唐・後晋・後漢・北漢の母体となった。

 

僕固懐恩の乱

764年、娘がブグ・カガンの后になっていたことや、出身がウイグルと同じ九姓鉄勒の僕固部であったことから、宦官などから謀反の疑いをかけられた僕固懐恩が吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度使の郭子儀によって防がれた。

 

765年秋、僕固懐恩はウイグル・吐蕃・吐谷渾・党項・奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天・醴泉・鳳翔・同州に侵攻した。しかし僕固懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、ウイグル首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて涇陽の郭子儀のもとへ請降しに来た。

 

これ以降、ウイグルと唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766 - 779年)において社会問題となった。

2024/03/19

安史の乱(1)

安史の乱、ないし安禄山の乱は、755年から763年にかけて、唐の節度使の安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。 安禄山・史思明両者の姓をとって「安史の乱」と呼称される。

 

背景

安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃の楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の河北省と北京市周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。

 

史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。

 

挙兵

李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の又従兄)との対立が深刻化し、ついにその身に危険が迫ると、安禄山は75511月に挙兵した。

 

安禄山軍の構成

盟友である史思明、参謀の次男の安慶緒、漢人官僚の厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らが参画した。

 

当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、蕃漢10万〜15万の軍団で構成された。

 

洛陽陥落と燕国建国の宣言

唐政府軍は平和に慣れきっていたことから全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1カ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。

 

756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言する。

 

唐軍の状況

唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。

 

哥舒翰は、御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。

 

雍丘の戦い

しかし、756年春に行われた雍丘の戦いにおいて、安禄山側の反乱軍は唐の正規軍に敗れ、計画が一時破綻してしまう。安禄山の配下の武将の令狐潮率いる反乱軍は、唐の軍人の張巡率いる正規軍に比べ圧倒的な兵力を擁していたにもかかわらず、雍丘・睢陽を獲得することができず、唐が勢力を回復するまでに燕国が中国南部を征服することができなくなってしまった。結局、燕国は757年に睢陽の戦いにて、唐軍を打ち破るまで睢陽地区を制圧することは出来なかった。

 

燕の長安制圧と唐の敗走

唐は7566月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する。

 

パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756613日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀へと敗走する。その途上の馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊暁・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。

 

唐よりウイグル帝国への援軍要請

7569月、粛宗はウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌王李承寀と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定蕃らを派遣する。10月に、オルド・バリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。

 

75611月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将の阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トンラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する。

 

葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する。

 

756年、アッバース朝のカリフであるマンスールは、唐を支援するために4000人のアラブ兵を派遣した。彼らは戦後、中国に駐留した。

 

安禄山の暗殺

一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近らの反発を買い、安禄山は757年正月に安慶緒によって暗殺された。父を殺した安慶緒がその跡を継いで皇帝となるが、安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立してしまう。

 

なお、同年春には燕軍に捕らわれ、長安に軟禁されていた杜甫が『春望』を詠んでいる。

 

國破れて 山河在り

城春にして 草木深し

時に感じて 花にも涙を濺ぎ

別れを恨んで 鳥にも心を驚かす

峰火 三月に連なり

家書 萬金に抵る

白頭掻いて 更に短かし

渾べて簪に 勝えざらんと欲す

2024/03/17

カレワラ(フィンランド神話)(2)

『カレワラ』(Kalevala、カレヴァラ) は、カレリアとフィンランドの民族叙事詩。19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot, 1802 - 1884年)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つで、フィンランドを最終的に1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えたとされている。名称は「カレワという部族の勇士たちの地」の意。

 

リョンロートによる『カレワラ』は、1835年に232章からなる叙事詩として出版され、当時の知識人階級に大きな衝撃を与えた。その後、それを増補し、1849年には全50章からなる最終版として出版した。

 

フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスは『カレワラ』に影響を受けた音楽を多数作曲しているほか、文学、絵画など、フィンランドのさまざまな文芸に影響を与えた。

 

成立の過程

フィンランドに独特の伝説や伝承が多数存在することは17世紀ころから知られ始め、18世紀には多くの研究が行われるようになった。1809年、フィンランドがロシア帝国に編入されたことを契機に民族意識が高まり、民族に特有の伝承が、固有の文化として認識されるようになった。

 

そうした中、エリアス・リョンロートがこの分野の研究を始めた。まず1827年に『ワイナミョイネン・古代フィン人の神格』という博士論文を発表。その頃から民族詩の採集旅行を行った。何度かの旅行の後、北フィンランドのカヤーニに医師として赴任、そこを本拠地に歌謡の収集を精力的に行った。1833年、アルハンゲリスクのブオッキニエミで大量の歌謡を採集した。これによってサンポにまつわる物語の大部分がそろい、彼はこれにレンミンカイネンの物語と結婚歌謡をまとめ、『ワイナミョイネンの民詩集』として発表した。これは後に「原カレワラ」と呼ばれるようになった。

 

彼は翌年もその地を訪れて多くの歌謡を収集し、原カレワラを補修改訂して『カレワラ・フィンランド民族太古よりの古代カレリア民詩』を発表(1835年)、これは「古カレワラ」と言われる。彼はその後、調査地域を広げ、ラップランドや南カレリア、イングリアなどからも民詩を採集、それまでのものを見直した。その後、内容を増補した『カレワラ』が1849年に発表された(新カレワラ)。これが現在、カレワラとして知られているものである。

 

リョンロートによる創作

           

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

 

カレワラはフィンランドの伝承に基づくものではあるが、口承そのままではない。リョンロートは、それらの歌謡や民詩を適当に取捨選択しただけでなく、全体がひとつながりの物語となるように配置し、互いの整合性や連続を持たせるように編集したり、名前を変えたり、時には自分で創作した詩句によって埋めたりもしている。カレワラ全体における彼の創作は、一説によれば約5%と言われる。

 

この点については、やや注意を要する。芸術作品として見る場合、このことはなんら問題ではない。彼の創作した部分も違和感なく全体に収まっているとの評価である。ただし、そのためにストーリー展開に無理が生じている部分もある。たとえば結婚歌謡の部分など、物語としてはイルマリネンが遂に嫁をもらって、それを連れて実家に帰るだけの部分に5章も費やしている。これは民謡を採取保存するという目的には適っているが、物語の展開としてはくどく感じられる。他方、これを神話や伝承として見る場合には、場合によっては本来の意味と異なっている場合が少なくない。そのような観点から、カレワラを民俗誌として読むときには、上記の点に留意しておかねばならない。

2024/03/12

唐(14)

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美術工芸分野

名前だけです。

 

 絵画。

 呉道玄(ごどうげん)(8世紀)。山水画の名手。

 閻立本(えんりつほん)(?~673)。人物画「歴代帝王図巻」。ボストン美術館にある。かれの直筆かどうかは、あやしいようです。

 二人とも絵の写真もなしで画家を語るのはむなしいですね。

 

 書道。

 楮遂良(ちょすいりょう)(596~658)。

 顔真卿(がんしんけい)(709~786?)。顔真卿は安史の乱で自衛軍を組織して反乱軍に抵抗をつづけた男です。字も力強い。王羲之の貴族的な優雅な書風を一変させた。このひとの書のファンは多いです。

 文、画、書、の名人たちですが、かれらも官僚です。芸術家という商売は、まだありません。芸術は貴族階級がたしなむものなのです。

 

 工芸では唐三彩(とうさんさい)。これは人名ではありませんよ。陶器の名前。このように何色もの色つけがしてある。置物ですね。

 作品の題材は中央アジアのものが目立ちます。ラクダにイラン人が乗って、琵琶を弾いている。こういうものが有名。唐の国際性があらわれているね。

 

学問

 儒学は官僚登用試験の科目にも採用されて、隆盛。

 南北朝時代に、儒学のテキスト五経の解釈はわかれて統一が必要だった。解釈がわかれていては試験問題にもしにくいしね。太宗がこれを命じたのが孔穎達(くようだつ)(574~648)。「五経正義」という政府公認の儒学のテキストをつくった。

 これ以来、官僚をめざす受験生はこれを参考書にして勉強した。勉強には便利だったけれど、これを理解すればよいので、儒学の解釈は固定化しました。

 

宗教

 道教は則天武后や玄宗の保護を受けて隆盛です。

 しかし、話は仏教です。

 仏教はますます中国に深く浸透して、僧侶のなかで本場インドに留学したいと思うものがでてくる。

 東晋の時代に、法顕(ほっけん)という僧がインドに旅行して「仏国記」を残していますが、唐ではさらに有名な人がでた。

 

 玄奘(げんじょう)(602~664)です。三蔵法師の名でお馴染み。

 13歳で出家した。天才少年で、あっというまに先輩たちを追い抜いて仏教の理論を吸収していった。20歳をこえる頃には、大人に講義をするほどになっていた。勉強するほどにわからないところがでてくる。だけれど、玄奘の疑問に答えられる人は中国にはいないのです。

 疑問を解決するためには本場のインドにいくしかない。ところが、当時国外への旅行は禁じられていたのです。けれど、どうしても、いきたい。とうとう国境警備隊の監視をかいくぐって、国境線を突破、国外脱出に成功した。27歳の時です。太宗李世民の時代でした。

 

 インドへの旅の困難さが、やがて『西遊記』の物語になった。これは後世に描かれた玄奘の絵ですが、背中にでっかい荷物を背負ってるでしょ。一切合財ここに詰め込んで旅にでた。首飾り見えますか? これ、小さいけれどドクロですね。ドクロを首に巻いている。魔除けです。実際の玄奘はドクロを巻いていなかったと思いますが。妖怪が出てくるような人外魔境をゆくというので、こんな絵になったのでしょう。

 

 インドでも学識の高さで有名になって、ヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ王にも招かれた。王にすっかり気に入られて、たくさんのお経を持って645年帰国します。帰りは何頭もの馬に何百巻もの経典を積んで、お付きの者もつけてもらっての旅でした。

 

 唐の国境のまじかまで来るのですが、玄奘帰ることができない。だって、密出国ですから、帰れない。そこで、かれは長安の太宗皇帝に手紙を出した。自分は唐の僧ですが、仏教を学ぶために国法を破ってインドに行きました。留学を終えて帰ってきたのですが、どうか入国を認めてください、とね。

 太宗、歓迎して玄奘を迎えます。貴重な西域、インドの情報源と考えたんでしょう。玄奘のために寺を建てて経典の漢訳を援助した。何十人もの助手をつけて翻訳を手伝わせた。

 現在、長安の観光名所大雁塔(だいがんとう)は、玄奘が持ち帰った経典を保存するために建設されたものです。

 また、太宗の命令で玄奘が書いた西域旅行記が「大唐西域記」です。

 

 もう一人、インドへおもむいた僧に義浄(635~715)がいます。

 かれは陸路ではなく、南シナ海を通っていきました。旅行記が「南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)」。東南アジアの諸民族の貴重な記録となっています。

 唐の時代は禅宗、浄土宗、天台宗、真言宗など宗派が形成される時代で、仏教が中国化しはじめているときでした。

 日本からの留学僧は、そういうなかで最新流行の宗派を持ち帰って日本に紹介したわけです。有名なのが空海の真言宗、最澄の天台宗ですね。

2024/03/10

イスラム教(3)

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「断食」。

一年に一ヶ月断食月があります。ラマダーンと呼ばれる月です。これは、まったく何も食べないのではない。日の出から日没まで、太陽の出ている時間帯に食べ物を口にしない、というものです。日が沈んだら、食べてもよいのです。

 なかなか、しんどそうですね。

 ところが、イスラム教国の人たちには、このラマダーンはそれなりに楽しいものらしい。お祭りに近いものがあるということです。

 

 自分だけダイエットして、好きなものが食べられなくて空腹というのはつらいけれど、ラマダーンにはみんなが食べられない。「あー、腹減ったな、つらいな。」と思う。隣の奴の顔を見るとそいつも「あー、腹減った。」という顔をしている。こいつも、あいつも、みんなつらいけど我慢しているんだと思うと、なんだかともに戦っている、みんな仲間だという連帯感が芽生えてくる。

 

 さあ、日が沈みます。「やったー!」って、みんなが思うのですよ。この時の開放感がたまらないらしい。親戚や友人がみんなで食べ物を持ち寄って、夜はパーティです。イスラムはお酒は禁止だから、食事会。こういうお祭り気分が一ヶ月続く、それがラマダーン。イスラムの「断食」です。

 

 「喜捨」。

これは富めるものが貧しいものに財産をわけあたえることです。イスラムは商人の倫理が根っこにあるから、まともな取引で儲けることはいいことなんですが、儲けっぱなしで、財産をため込むことを卑しいこととします。儲けたなら、それを貧しいものに施すことを勧めます。

 

 これは、逆から見ると、貧しい者は豊かな者から恵んでもらって当然だ、という考えになる。日本人がイスラムの国に旅行した。駅を降りると乞食の人が寄って来るんだって。「金をくれ!」と言うその乞食の人の態度が滅茶苦茶でかい。日本人から見ると威張っているように見える。ムッとして「なぜ、お前に恵まなければならないんだ?」と問いかけたら、「お前は日本人だろう、お金をたくさん持っているはずだ。俺は貧しい。豊かな者が貧しい者に恵むのは当然のことだ。俺がお前の金をもらってやる。そうすればお前は喜捨ができて、来世で救われるのだ。」と理屈を言ったそうです。

 

 本で読んだか人の話か忘れましたが、そんな感じらしい。貧しい者がもらってやらなければ喜捨はできないので、貧しい者も卑屈になる必要がない。貧しいということは、どんな世界でも決して楽しいことではないはずです。でも、こういう喜捨の考え方があれば、表面だけでも貧しい者が卑屈にならなくてもすむのかもしれません。

 

 喜捨と関係するのですが、イスラム世界ではイスラム銀行という銀行がある。この銀行は、日本や欧米の銀行とは違って利子がないのです。預金を何年しても利子が付かない。なぜ、預金者はこんな銀行に預けるのか?

 銀行は預金の運用益を喜捨的な事業に使うのです。だから、イスラム銀行に預けるということは、間接的に喜捨をすることになる。

 

巡礼。

これは、メッカに巡礼することです。一年に一回、巡礼月があって世界中からイスラム教徒がメッカに集まってくる。テレビでも最近よくやるので見た人もいるでしょう。現在メッカはサウジアラビアにあるので、サウジ政府は巡礼者の受け入れに非常に気を配っている。また、それがサウジ政府の威信を高めることにもなっているようです。

 メッカに巡礼するということは、交通の不便だった昔はなかなかできることではなかった。一生に一度はメッカ巡礼を果たすことがイスラム教徒の悲願でした。だから、今でも巡礼をした人は「ハッジ」と呼ばれ、地域の人々から尊敬をされます。

 

その他の特徴

 六信五行以外にイスラムの特徴を見ておきます。

聖戦。ジハードともいう。

 これは、イスラム教徒が異教徒と戦うことです。

 

 イスラム法。

 イスラム教徒は、コーランにしたがって生活します。コーランには宗教的な話だけではなくて、日常生活のルールもいろいろ定めている。ムスリムとして生活しようとすると、宗教生活以外でもコーランに縛られることが多いのです。また、ムスリムが生活上でいろいろなトラブルがあった場合にも、コーランの記述に基づいて裁く。

 こうして、イスラム世界ではコーランに基づく法律が発展しました。これをイスラム法という。

 

 イスラム法を学んだイスラム法学者、ウラマーという人たちが、人々の日常的な生活の相談から政治的な指導までする。そういう世界です。

 日本や欧米では、政教分離が原則ですね。政治に宗教が関わらないように制度上さまざまな工夫をしている。ところが、イスラムでは政治・法律と宗教を切り離すことができない。すべてがイスラム教に関わっているのです。

 だから、一日五回の礼拝や、断食月なども可能になるのです。

 

 たとえば結婚ですが、ムスリムは結婚前に両者が契約書を作る。何が書いてあるかというと、離婚する場合の条件が書いてある。離婚の場合、夫はどれだけの金額を妻に渡すとかなんとか。契約書をイスラム法学者に見せて問題がないのを確認してもらってから、正式な結婚となります。こういう結婚の仕方がイスラム世界でどこまで一般的かはわかりませんが、そういう地域もあるということ、生活のすべての面がイスラム法、コーランに基づいているということを覚えておいてください。

 

 聖職者の存在を認めない。

 イスラム教ではお坊さん、聖職者はいません。信者はすべて対等です。キリスト教の牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていません。

 テレビを見ていると「○○師」という名前で聖職者のような人が出てくるときがありますが、あれはイスラム法学者で聖職者ではないのです。イスラム法を解釈するだけで、神との関係で特別な地位にあるわけではない。

 ただ、一般民衆の心情として「聖者」を求める気持ちはあって、地域地域でいろいろな聖者がまつられています。ただ、これは公式的なイスラム教から見ると変則的ということになる。

 

 商人の倫理を重視。

 ムハンマド自身が商人だったこともあって、イスラムは商業倫理を尊重しています。仏教でも、キリスト教でも商売を軽視、もしくは蔑視するところがある。これは、農民のように額に汗して手に豆を作って働きもせず、右のものを左に動かすだけで儲けることを卑しいこととしたためです。イスラムには、こういう面はない。

 むしろ、商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。

 

 このため、イスラム世界では商業が発展した。中国から地中海にまでまたがる交易ネットワークが形成された。唐の時代に広州には、ムスリム商人がたくさん住んでいました。日本にまでイスラム教徒は来ているんですよ。室町幕府の三代将軍足利義満に仕えたムスリム商人がいて、この人は河内の女性と結婚して子供を作った。この子が幼名ムスル、日本名が楠葉西忍(くすばさいにん)という。やっぱり室町将軍に仕えて、日本商人を引きつれて中国の明に貿易に行ったりしている。

 歴史に名前を残しているのはかれくらいですが、そのほかにも記録に残っていないムスリム商人がたくさん九州あたりには来ていたかもしれないと思うと面白いです。

2024/03/03

唐(13)

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文学の隆盛

 唐の文化といえば文学、なかでも詩を語らなくてはすまないね。NHKで早朝に漢詩の番組がありますが、ほとんどが唐の時代の詩です。いまだに日本でも愛好者は多い。個別に見ていきましょう。

 

李白(701~62)

 天才詩人です。自由な詩風。開放的、貴族的、といわれます。西域貿易で大儲けした商人の息子に生まれた。苦労なしで育ったから、自由な詩風だったのかもしれない。

 「少年行」は、先ほど紹介しました。明るく華やかな詩を書く人ですね。お酒の詩も多い。黙って二人で飲もうじゃないか、とかね。

 李白の才能は評判となり、やがては玄宗の宮廷に出入りするようにもなります。

 

 当時の文学者というのは、みんな官僚か官僚志望の人たちです。官僚というのは、人並みの文章が書けるのは当たり前の教養なんです。その中で飛び抜けた才能を持つ者は、今でいうスターです。スター詩人は、貴族や役人のいろいろな宴会の席によばれて、その場にあった詩をひとひねりする。見事な詩を即興で作り上げて拍手喝采を浴びる。ますます評判があがる、という寸法です。芸人に近いところがある。

 

 李白は陽気で華やか、自由奔放な性格ですから、そういう宴席でも人気があるのです。かれが来れば座が盛り上がる。

 

 ある時、玄宗皇帝が船遊びをしていた。お気に入りの側近を集めて宴会です。玄宗、余興に李白を呼んで詩を詠ませようと思った。側近に李白をよびにいかせますが、家にいない。酒好きの李白ですから、酒場を探したらいました。皇帝陛下がお呼びです、どうぞいらしてください、と使者が告げるんですが、李白はすでに出来上がってしまってぐでんぐでん。

 

 とにかく使者は、なんとか李白を宴席に連れてきました。李白はフラフラしていて、ドテーンとソファにふんぞり返って、テーブルの上に両足を投げ出しました。態度でかいのです。ついでに横に立っていた男に命令した。「おいお前、俺の靴を脱がせろ。」

 

 立っていた男は高力士という宦官で、玄宗のお気に入りの一人だったんですね。この俺様に対して、と思ってムッとするんですが、李白はお客様で自分は宦官ですから、その場はしゃがみ込んで李白の靴を脱がせた。当時の靴はブーツのような編み上げ靴だった。脱がせるのに時間がかかる、酔っぱらいの足だから臭かった。

 

 高力士は、この時の恨みを忘れない。折に触れて玄宗に李白の悪口を言ったらしい。あの男は才能を鼻にかけて、陛下を馬鹿にしているとかね。ついに玄宗は、李白を長安から追放してしまったという。ちなみに高力士は、のちに玄宗の命令で楊貴妃を絞め殺すことになる男です。

 

 こんな事があっても、自由気ままな李白の性格は変わらなかったようです。

 

 このエピソードを李白の親友、杜甫が詩にしています。

 

 「飲中八仙歌」

  李白は一斗、詩百篇

  長安市上、酒家に眠る

  天子呼び来(きた)れども船に上(のぼ)らず

  自ら称す、臣は是(こ)れ酒中の仙、と

 

 最初の句は、酒を一斗飲めば詩が百でてくる、という意味。

 李白は「詩仙」と称されます。在命中から、天国から間違って地上に落ちてきてしまった詩の仙人、といわれていた。最後の「酒中の仙」とは、それをふまえています。皇帝の使者がよびに来ても、「俺は詩の仙人じゃい、皇帝がなんぼのもんじゃ」とうそぶいていた、という感じでしょうか。

 

杜甫(712~70)。

 李白と並び称される大詩人。「詩聖」といわれる。

 李白とは正反対の性格で、地味で不器用な人。官僚になるため、縁故を求めて就職活動をずっとしているんですが、ダメなんです。詩人としては有名になるんですがね。

 

 40代になって、ようやく下級官僚になるんですが、ちょうど安史の乱が起こってすべてがパーになってしまった。その後は各地の有力者の世話になりながら、諸国を放浪して生涯を終えました。

 苦労した人だから、作品も庶民の生活や兵士の苦労、戦乱の悲惨、そういう社会的な題材を多く取り上げています。

 

王維(701~61)

 自然を描く詩にすぐれ、画家としても有名。

 少年の頃から、天才の名をほしいままにした宴席のスーパースターの一人です。官僚登用試験にも合格して、官僚としても出世した。この人も安史の乱に遭遇して捕虜になる。無理矢理に安禄山に仕えさせられたこともあった人です。

 

白居易(はくきょい)(772~819)

 白楽天(はくらくてん)ともいいます。前の三人より、あとの時代の人です。

 「長恨歌(ちょうごんか)」という詩が有名。これは玄宗と楊貴妃の悲恋を詩にしたものです。平安貴族に愛唱されたので、日本で有名になりました。

 

 白居易は、作詩するときに何度も推敲する。推敲の仕方が面白い。まず詩ができると、街へ出ていき道ゆく老婆をつかまえて無理矢理詩を聞かせる。お婆さんが「よくわからないなあ」という顔をしていたら、持ちかえって書き直す。で、また通りすがりの老人をつかまえて聞かせる。聞かされた人が「いいねえ」という顔をしたら完成です。

 

 白居易が、ためしに聞かせる相手はみんな庶民。文学の素養なんかない普通の人ばかり。そういう人たちでも感動できる作品をめざすのです。かれの詩の特徴は平易で流麗ということですが、こういう作詩の態度からきているのですね。

 日本の貴族たちにうけたのも、平易な文で理解しやすかったからではと思います。

 

 文という文学分野が中国にはあります。

 

 唐と次の宋の時代に文の名人が八人。これを「唐宋八大家」といいます。唐には、そのうち二人がいます。

 

 韓愈(かんゆ)(768~824)と柳宗元(りゅうそうげん)(773~819)。

 南北朝時代は、四六駢儷体(しろくべんれいたい)という華麗な文体が流行するのですが、これにたいして漢代風の骨太い文を復興した。

2024/03/01

イスラム教(2)

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イスラム教徒の義務

 ムスリム、つまりイスラム教徒には、どんな「おつとめ」があるのか。「六信五行(ろくしんごぎょう)」という義務があります。

 

 「六信」とは、ムスリムが信じなければならない六つのことです。

 「神」「天使」「啓典」「預言者」「来世」「天命」。この六つ。

 「啓典」は、「コーラン」のこと。ユダヤ教やキリスト教の教えを引き継いでいますから、イスラムでも最後の審判はあって、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」とはそういうことです。最後の「天命」というのは、どういうイメージなのか、私はよくわかりません。

 

 「五行」は、ムスリムが行わなければならない五つのことです。

 「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。

 

 「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えることです。声に出さなければダメですよ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれます。

 

 「礼拝」のシーンは資料集にもありますし、テレビでも見たことのある人は多いと思います。正式には一日五回、メッカの方向を向いておこなう。

 ムハンマドは、イスラムの教義を作り上げていくときに礼拝の方向を決めました。はじめはイェルサレムに向かってとか、いろいろ試行錯誤するんですが、最終的にはメッカのカーバ神殿に向かって礼拝することにきめました。世界中のムスリムが礼拝の時間には、メッカのカーバ神殿に向かって拝むのです。

 

 このカーバ神殿というのは、ムハンマドが生まれるずっと前からメッカの町にあった神殿で、多くのアラブ人の信仰を集めていました。イスラム教の登場以前のアラブの宗教は多神教ですから、カーバ神殿にはたくさんの神さまの像が祀られていた。

 

 ところが630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊しました。イスラム教の特徴の一つに、偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのですが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかです。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになりますから、一神教の教義に反するのです。

 

 この絵は、ムハンマドがメッカ占領の時に、カーバ神殿からいろいろな神さまの像を引きずり出して破壊しているところです。多くの像が砕かれているでしょ。

 偶像を破壊しているこの男がムハンマドなんですが、顔がベールで隠されています。実際にムハンマドがベールを付けていたわけではないのですが、偉大な預言者を描いてしまうと、信者が思わず拝んでしまうかもしれません。これこそがイスラム教が否定する偶像崇拝ですから、そうならないように顔を隠して描いている。そのほかにも、人間であっても重要なイスラム教の指導者は顔を隠して描くのが一般的です。

 

 話はそれますが、20年ほど前、大学時代に映画を見に行ったら「ザ・メッセ-ジ」という映画の予告編をやっていた。ムハンマドの伝記映画なのです。サウジアラビアとかリビアとか、アラブ諸国が制作費を出して作った映画だったのですが、面白かったのは主人公はムハンマドなんですが、ムハンマドがいっさい画面に出てこない。主人公が登場しない映画なんて前代未聞だね。

 どうしているかというと、カメラがムハンマドなんです。ムハンマドが見ている設定で映画は作られている。偶像崇拝否定というのは徹底したものです。

 

 カーバ神殿に戻りますが、ムハンマドはそれまでの神像を全部破壊して、そのあと神殿の中はどうなったか。空っぽです。なーんにも入っていない。神殿の建物があるだけです。

 

 宗教というのは「祈る・拝む」という行為と切り離せません。礼拝のない宗教はない。拝むときには、やっぱり拝む対象が欲しいでしょ。みんながてんでバラバラの方を向いていたんでは、信者同士の連帯感も生まれにくい。

 ムハンマドが苦肉の策で、考え出したのが空っぽの神殿に向かって拝むということだったんでしょう。

 だから、世界中のムスリムは空っぽに向かって礼拝をしているのです。

 

 ただ、正確に言うと、カーバ神殿には何もないのではなくて、神殿の壁の一カ所に「カーバの黒石」と呼ばれる石がはめ込んであります。資料集に写真がありますね。いん石らしいのですが、この石がアッラーの指先とされています。ここに巡礼に来た人たちが千年以上もさわり続けて、だいぶんへっこんでいます。

 

 とにかく、このメッカに向かって「礼拝」をする。ところが旅行中とか外国にいると、メッカがどちらの方向かわからなくなる。そこで、旅行者向けに「メッカ探知機セット」が売られている。この地図で緯度と経度を調べて、コンパスでメッカの方向がズバリわかる。こんな商品があるくらいに、「礼拝」は大事な「行」です。

 

 「礼拝」の手順がプリントにありますね。

 まず、メッカを向いて直立。次に、手のひらを広げて耳の両脇に持ってきて「神は偉大なり」と唱える。手を下ろして、お辞儀をしながら「神は偉大なり」をもう一度。

 ひざまずいて額を地面につけながら「神は偉大なり」。これを二回繰り返して、また立ち上がって、お辞儀。この時も「神は偉大なり」と言う。

 また、ひざまずいて額をつけて「神は偉大なり」を二回。

 最後に、ひざまずいたままで軽くうつむいて、神を讃えて預言者とムスリムへの神の祝福を祈ります。さらに、首を左右に振って「アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安がありますように)」と唱えておしまい。この時、両手は膝の上に置いているのですが、右手をよく見てください。人差し指だけを伸ばしている。これは、神は唯一、という印です。

 

 立ったり座ったり、なかなか忙しい。これが礼拝ですが、正式には礼拝にはいる前に手や顔を決まった手順で清めなければならない。また、立っている間に「コーラン」の一節を唱えたりもしますから、結構時間がかかります。

 

 この写真はサウジアラビアの風景ですが、砂漠に道路が走っている。ここで礼拝している人たちがいるね。わかりにくいのですが、ここに車がとまっている。かれらは、自動車で砂漠を旅していたんですが、「礼拝」の時間になったので車から降りて祈っている。

 

 実際に一日五回の「礼拝」は、イスラム教国に住んでいれば問題なくできますが、そうでない地域で生活していると実行は難しい。

 たとえば、このクラスにムスリムの生徒がいて、授業中に「先生、礼拝の時間になりましたので失礼します」といって、「アッサラーム・アライクム…」とやられてはちょっと困る。学校ならまだ許されるかもしれませんが、出稼ぎで日本の工場で働いていたりすると、5回の礼拝は無理です。

 ですから、今では住んでいる地域によって、朝晩以外の礼拝は簡略化してもよいとか、しなくても構わないとか、柔軟になっているようです。