2024/03/31

楊 貴妃(4)

楊貴妃の詩

『全唐詩』に楊貴妃が作成した漢詩が1首、記載されている。楊貴妃が華清宮において侍女の張雲容に霓裳羽衣の曲を舞わせ、それを題材に詠み上げ、玄宗に見せたものである。

 

阿那曲(贈張雲容舞)

原文       書き下し文

羅袖動香香不已   羅袖(らしゅう) 香を動すも 香已まず

紅蕖裊裊秋煙裏   紅蕖(こうきょ)裊裊(じょうじょう)たり 秋煙の裏

輕雲嶺上乍搖風   軽雲 嶺上 乍(たちま)ち風に揺らぎ

嫩柳池邊初拂水   嫩柳 池辺 初めて水を払う

 

楊貴妃と後宮をともにした女性たち

紅桃

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌いともに涙にくれたが、玄宗によって「涼州」は広められた。

 

謝阿蛮

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため玄宗は涙を落としたと伝えられる。

 

張雲容

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。

張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞いもらい受け、楊貴妃に頼んで空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより地仙になったという。

 

王大娘

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

 

許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で、本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。

安史の乱の時に後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り民間の中で死去する。最期に母親に「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

後世への影響

文学・音楽・戯曲

白居易の『長恨歌』を題材に作られた能「楊貴妃」がある(金春禅竹作)。

音楽作品としては、山田検校の「長恨歌」、光崎検校の「秋風の曲」がある。

井上靖は、楊貴妃の生涯を元に『楊貴妃伝』を執筆した。

『楊貴妃伝』はさらに、2004年に宝塚歌劇団星組で舞台化された。

中国で後世、多くの小説・漢詩・雑劇・戯曲の題材として取り上げられた。さらに、日本においても、古典文学で話題にたびたび取りあげられ、古川柳などでも題材としていくつも使われている。

 

明末期の笑話集『笑府』刺俗部に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。

ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやる。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「妃(フェイ)」と答える。さらに尋ねたところ「私は楊貴妃です。馬嵬で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。これを聞いてうらやんだ隣の男、野原を探し回ってやはり野ざらしになった骸骨を見つけ、供養したところ、その晩やはり戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「飛(フェイ)」と答える。「楊貴妃かい」と訊くと「俺は張飛だ」という答え。仰天して「張将軍には何ゆえのお来しで」と訪ねると、張飛曰く「拙者、漢中で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっておったのを、貴殿に供養していただいた。お礼に夜伽をさせていただきたい」。

これがさらに日本で翻案されたのが、落語『野ざらし』。

 

その他

細身の趙飛燕と比べて、豊満な体型をしていたということで「楊肥趙痩」「環肥燕瘦」と、豊満体型の美人とほっそり体型の美人を比べ、表現する言葉として残っている。

日本の腹掛けに似た中国の伝統衣装「肚兜」は、楊貴妃が着用したことが始まりとされている。

 

日本の山口県には、楊貴妃が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、長門市油谷町の二尊院というお寺には、楊貴妃の墓と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある。

 

日本には、楊貴妃は熱田神宮の明神の化身であるという伝説もある(『長恨歌』に詠われた、天に還った楊貴妃がいた蓬萊が日本であるという伝承があった)。

 

京都市泉涌寺にある観音菩薩坐像は楊貴妃をモデルに作られたという伝承があり、楊貴妃観音とも呼ばれている。

 

茘枝を好んだという前出のエピソードから、デ・カイパー社(オランダ)のライチ・リキュールには「貴妃」という名前が付けられている。

また、カクテル「楊貴妃」は、ライチリキュールがベースとなっている。

楊貴妃が好んで飲んだと伝わる薬酒の楊貴美酒という処方がある。

メダカに「楊貴妃メダカ」という赤い色の種類がいる。

アヘンの材料になるケシ(芥子、罌粟)は、朝鮮語では「楊貴妃(양귀비)」と呼ばれる。ケシの持つ美しさと恐ろしさが、楊貴妃に例えられたからである。

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