2024/03/01

イスラム教(2)

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イスラム教徒の義務

 ムスリム、つまりイスラム教徒には、どんな「おつとめ」があるのか。「六信五行(ろくしんごぎょう)」という義務があります。

 

 「六信」とは、ムスリムが信じなければならない六つのことです。

 「神」「天使」「啓典」「預言者」「来世」「天命」。この六つ。

 「啓典」は、「コーラン」のこと。ユダヤ教やキリスト教の教えを引き継いでいますから、イスラムでも最後の審判はあって、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」とはそういうことです。最後の「天命」というのは、どういうイメージなのか、私はよくわかりません。

 

 「五行」は、ムスリムが行わなければならない五つのことです。

 「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。

 

 「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えることです。声に出さなければダメですよ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれます。

 

 「礼拝」のシーンは資料集にもありますし、テレビでも見たことのある人は多いと思います。正式には一日五回、メッカの方向を向いておこなう。

 ムハンマドは、イスラムの教義を作り上げていくときに礼拝の方向を決めました。はじめはイェルサレムに向かってとか、いろいろ試行錯誤するんですが、最終的にはメッカのカーバ神殿に向かって礼拝することにきめました。世界中のムスリムが礼拝の時間には、メッカのカーバ神殿に向かって拝むのです。

 

 このカーバ神殿というのは、ムハンマドが生まれるずっと前からメッカの町にあった神殿で、多くのアラブ人の信仰を集めていました。イスラム教の登場以前のアラブの宗教は多神教ですから、カーバ神殿にはたくさんの神さまの像が祀られていた。

 

 ところが630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊しました。イスラム教の特徴の一つに、偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのですが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかです。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになりますから、一神教の教義に反するのです。

 

 この絵は、ムハンマドがメッカ占領の時に、カーバ神殿からいろいろな神さまの像を引きずり出して破壊しているところです。多くの像が砕かれているでしょ。

 偶像を破壊しているこの男がムハンマドなんですが、顔がベールで隠されています。実際にムハンマドがベールを付けていたわけではないのですが、偉大な預言者を描いてしまうと、信者が思わず拝んでしまうかもしれません。これこそがイスラム教が否定する偶像崇拝ですから、そうならないように顔を隠して描いている。そのほかにも、人間であっても重要なイスラム教の指導者は顔を隠して描くのが一般的です。

 

 話はそれますが、20年ほど前、大学時代に映画を見に行ったら「ザ・メッセ-ジ」という映画の予告編をやっていた。ムハンマドの伝記映画なのです。サウジアラビアとかリビアとか、アラブ諸国が制作費を出して作った映画だったのですが、面白かったのは主人公はムハンマドなんですが、ムハンマドがいっさい画面に出てこない。主人公が登場しない映画なんて前代未聞だね。

 どうしているかというと、カメラがムハンマドなんです。ムハンマドが見ている設定で映画は作られている。偶像崇拝否定というのは徹底したものです。

 

 カーバ神殿に戻りますが、ムハンマドはそれまでの神像を全部破壊して、そのあと神殿の中はどうなったか。空っぽです。なーんにも入っていない。神殿の建物があるだけです。

 

 宗教というのは「祈る・拝む」という行為と切り離せません。礼拝のない宗教はない。拝むときには、やっぱり拝む対象が欲しいでしょ。みんながてんでバラバラの方を向いていたんでは、信者同士の連帯感も生まれにくい。

 ムハンマドが苦肉の策で、考え出したのが空っぽの神殿に向かって拝むということだったんでしょう。

 だから、世界中のムスリムは空っぽに向かって礼拝をしているのです。

 

 ただ、正確に言うと、カーバ神殿には何もないのではなくて、神殿の壁の一カ所に「カーバの黒石」と呼ばれる石がはめ込んであります。資料集に写真がありますね。いん石らしいのですが、この石がアッラーの指先とされています。ここに巡礼に来た人たちが千年以上もさわり続けて、だいぶんへっこんでいます。

 

 とにかく、このメッカに向かって「礼拝」をする。ところが旅行中とか外国にいると、メッカがどちらの方向かわからなくなる。そこで、旅行者向けに「メッカ探知機セット」が売られている。この地図で緯度と経度を調べて、コンパスでメッカの方向がズバリわかる。こんな商品があるくらいに、「礼拝」は大事な「行」です。

 

 「礼拝」の手順がプリントにありますね。

 まず、メッカを向いて直立。次に、手のひらを広げて耳の両脇に持ってきて「神は偉大なり」と唱える。手を下ろして、お辞儀をしながら「神は偉大なり」をもう一度。

 ひざまずいて額を地面につけながら「神は偉大なり」。これを二回繰り返して、また立ち上がって、お辞儀。この時も「神は偉大なり」と言う。

 また、ひざまずいて額をつけて「神は偉大なり」を二回。

 最後に、ひざまずいたままで軽くうつむいて、神を讃えて預言者とムスリムへの神の祝福を祈ります。さらに、首を左右に振って「アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安がありますように)」と唱えておしまい。この時、両手は膝の上に置いているのですが、右手をよく見てください。人差し指だけを伸ばしている。これは、神は唯一、という印です。

 

 立ったり座ったり、なかなか忙しい。これが礼拝ですが、正式には礼拝にはいる前に手や顔を決まった手順で清めなければならない。また、立っている間に「コーラン」の一節を唱えたりもしますから、結構時間がかかります。

 

 この写真はサウジアラビアの風景ですが、砂漠に道路が走っている。ここで礼拝している人たちがいるね。わかりにくいのですが、ここに車がとまっている。かれらは、自動車で砂漠を旅していたんですが、「礼拝」の時間になったので車から降りて祈っている。

 

 実際に一日五回の「礼拝」は、イスラム教国に住んでいれば問題なくできますが、そうでない地域で生活していると実行は難しい。

 たとえば、このクラスにムスリムの生徒がいて、授業中に「先生、礼拝の時間になりましたので失礼します」といって、「アッサラーム・アライクム…」とやられてはちょっと困る。学校ならまだ許されるかもしれませんが、出稼ぎで日本の工場で働いていたりすると、5回の礼拝は無理です。

 ですから、今では住んでいる地域によって、朝晩以外の礼拝は簡略化してもよいとか、しなくても構わないとか、柔軟になっているようです。

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