2024/03/30

乙巳の変(2)

蘇我入鹿暗殺

神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず政変の中心にたりえる人物を探した。

 

法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌足は、更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

 

乙巳の変には、大臣(オホマヘツキミ)・蝦夷の後継者が入鹿になったことに対する、蘇我氏同族の氏上争いといった側面も見られ、むしろ中臣鎌足が氏上と大臣の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍内麻呂を誘い込んだと見られる。また、中大兄皇子の狙いは、蝦夷と入鹿(蘇我氏本宗家)を倒すことを目的としていただけでなく、それまでの皇位継承の流れから考えると、同時に蘇我系王統嫡流の古人大兄皇子にもあったと考えられる。

 

皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として、暗殺の実行を決める(『藤氏家伝』大織冠伝には、三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。

 

612日(710日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。

 

佐伯氏は大伴氏の同族で、軍事で王権に仕えた氏族である。稚犬養氏は犬の飼養で王権に仕え、後に内蔵の管理にも当たった氏族であるが、「葛城」を冠しているところから、葛城地方に居住していた集団であり、本来は蘇我氏の影響下にある集団から、反本宗家の動きが出てきたと考えられる。いずれの氏族も、後の宮城十二門の守衛にあたる門号氏族であり、乙巳の変の際に「倶に十二の通門をさしかためて、往来はしめ」なかったのも、これらの氏族の協力があったと考えられる。

 

入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌足は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。

 

中大兄皇子は、子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は、入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。

 

しかし、有名なこの場面は、『日本書紀』や『藤氏家伝』の原史料の段階で作られた創作であると考えられる。「天宗を尽し滅す(皇族を滅ぼし尽くした)」というのは山背大兄王や上宮王家の討滅を指すのであろうが、それと自らが皇位と替わろうという野望を抱いていたと短絡させるのは論理的ではない。また、斬られた入鹿が開口一番に「皇位にあらせられるべきお方は、天の御子(天皇)でございます」と訴えるのもおかしな話であり、要するに、「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と「それを誅殺した偉大な中大兄皇子と、それを助けた忠臣中臣鎌足」という図式で、この出来事を描こうとしているのである。

 

入鹿からしてみれば、高句麗にならって権力を自己に集中させ、飛鳥の防衛に腐心して激動の東アジア国際情勢に乗りだそうとしていた矢先に、いきなり切り殺されてしまったことになる。斬られた後に叫んだという、「私が何の罪を犯したというのでございましょう」という言葉は、本当に発したものか否かはともかく、まさに入鹿の思いを象徴したものであると考えられる。

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