2024/03/21

安史の乱(3)

ウイグルによる唐征討計画

778年、ウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)自身も唐に侵攻する。翌779年、代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人官僚の進言でブグは唐に侵攻しようとするが、宰相のトン・バガ・タルカン(頓莫賀達干)がブグ・カガンとソグド人官僚を殺害し、アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(合骨咄禄毘伽可汗)として即位した。アルプ・クトゥルグ・ビルゲは対唐関係を修復した。またアルプ・クトゥルグ・ビルゲは、先代のブグ・カガンが信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人にも圧力をかけ、また国号を回紇から回鶻に変える。

 

チベット軍の動向

また、同779年には吐蕃・南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。しかし786年には敦煌を占領し、河西回廊を掌握。以後、タリム盆地南縁部へ進出する。

 

北庭争奪戦

789年にはチベット軍は、それまでウイグルに服属していた白服突厥やカルルクと連合し、北庭大都護府のあったビシュバリク(北庭)を襲撃し、現地のウイグル・唐軍に勝利する。ウイグル軍はモンゴリア地方まで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部もチベットに降る。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグルが勝利し、トルファン盆地を含む東部天山地方全域がウイグル帝国の領域となり、タリム盆地北辺がウイグル領、タリム盆地南辺がチベット領となった。

 

東方で奚・契丹の反乱が起きていたため、忠貞可汗(在位:789 - 790年)は頡于迦斯(イル・オゲシ)を派遣するが回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。その後、頡于迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく56万の兵で攻めたが大敗する。一方で葛邏禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。

 

791年、ウイグルは北庭を奪還、また唐軍と共に塩州・霊州へ攻撃を掛けて陥落させ、吐蕃の首領を捕えた。この後のタリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。

 

809年、吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻・唐の間の直道(参天可汗道)を遮断。

 

811年、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還と、ジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。840年頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和した。

 

813年、ウイグルが漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し、周辺も制圧された。821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。

 

三国会盟

821年、ウイグル・チベット・唐の間での三国会盟が締結された。この三国会盟については従来、チベットと唐の二国間での長慶会盟であることが通説であったが、近年、森安孝夫が敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言をパリで発見したり、中国の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と原州をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線で東西に走るゴビ砂漠がウイグルとチベットとの国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。

 

824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に漠南を奪還し河西地域を征服した。

 

自立した勢力の一覧

ここでは安史の乱、及びその後の混乱により自立した勢力を記す。

 

勢力名   存在年   本拠地   初代指導者          最後の指導者      鎮圧・崩壊

          756年〜763年、7年間      洛陽       安禄山   史朝義   唐・回鶻連合による鎮圧

秦→漢   783年〜784年、1年間      長安       朱泚       朱泚       李晟の反撃による長安放棄

          784年〜786年、2年間      大梁府   李希烈   李希烈   部下の陳仙奇による殺害

          880年〜884年、4年間      長安       黄巣       黄皓       朱温と李克用による鎮圧

 

日本への影響

このような唐の動乱の影響は、海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して、大宰府に警戒態勢の強化を命じている。

 

更に唐の対外影響力の低下を見越して、長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために、新羅征討は中止された)。

 

死者数

一部の学者は当時の国税調査の記録などから、安史の乱の死者数が唐の人口の3分の2にあたる3600万人に上ると概算している。しかし、戦乱によって国税調査システムが崩壊して正確な人口数が把握できなくなっていたため、記録上は3600万人が減少したからといって、その全員が死亡したとは限らない。スティーブン・ピンカーは、著書にて3600万人という死者数を引用し、当時の世界人口の6分の1が失われたと提示したが、議論の余地のある数だとも指摘している。ヨハン・ノルベリは、著書にて死者数は8世紀の世界人口の約5%を占める1300万人に及ぶと述べた。

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