2024/03/20

安史の乱(2)

唐・ウイグル連合軍による奪回戦

粛宗は、7572月には鳳翔にまで南進する。

 

7579月、葛勒可汗は葉護太子と将軍の帝徳ら30004000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王李俶(後の代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした。

 

唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。

 

75710月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて、燕軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は、車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。

 

郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は、賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。燕軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。

 

11月、広平王・僕射郭子儀・葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した。

 

7585月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグ・カガン)に冊立する。7594月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、次男の移地健が第三代カガンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である。

 

史思明の暗殺と乱の終結

この状況を見た史思明は唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人らが自分の殺害を計画していることを知ると、降伏を撤回し、7593月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし7612月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される。

 

7624月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する。

 

7628月、唐の代宗は安史政権の残党の史朝義を討伐するために、ウイグルのブグ・カガンに再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグ・カガンを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。

 

唐の使節劉清潭は、それに遭遇したので唐への侵攻を踏みとどまるようブグ・カガンを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた。

 

劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグ・カガンの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグ・カガンを説得したとされる。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。

 

76210月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、莫県に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。

 

なお、同76310月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。

 

その後

この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるため、反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は、地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。

 

唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)・契丹が台頭する。

 

河朔三鎮

河朔三鎮は、河北に設置された3つの藩鎮、即ち幽州節度使と成徳軍節度使・魏博節度使のことであり、安禄山及び史思明の部下であった軍人が節度使を務めた。これらの藩鎮は、管轄地域の戸籍を唐王朝に報告せず、徴収した税を自分のものにし、配下の役人や軍人の人事も勝手に行った。

 

この地域の歴代の節度使は、ソグド系突厥や契丹・奚の末裔であった。彼らは藩鎮における統治や、唐王朝との折衝を行うために科挙には及第したが、任用試験を通らなかった者を登用した。

 

幽州節度使は、後に契丹が建国した遼へと継承され、成徳軍節度使と魏博節度使は五代十国時代の国家のうち、突厥の沙陀族が支配者となった後唐・後晋・後漢・北漢の母体となった。

 

僕固懐恩の乱

764年、娘がブグ・カガンの后になっていたことや、出身がウイグルと同じ九姓鉄勒の僕固部であったことから、宦官などから謀反の疑いをかけられた僕固懐恩が吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度使の郭子儀によって防がれた。

 

765年秋、僕固懐恩はウイグル・吐蕃・吐谷渾・党項・奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天・醴泉・鳳翔・同州に侵攻した。しかし僕固懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、ウイグル首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて涇陽の郭子儀のもとへ請降しに来た。

 

これ以降、ウイグルと唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766 - 779年)において社会問題となった。

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