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美術工芸分野
名前だけです。
絵画。
呉道玄(ごどうげん)(8世紀)。山水画の名手。
閻立本(えんりつほん)(?~673)。人物画「歴代帝王図巻」。ボストン美術館にある。かれの直筆かどうかは、あやしいようです。
二人とも絵の写真もなしで画家を語るのはむなしいですね。
書道。
楮遂良(ちょすいりょう)(596~658)。
顔真卿(がんしんけい)(709~786?)。顔真卿は安史の乱で自衛軍を組織して反乱軍に抵抗をつづけた男です。字も力強い。王羲之の貴族的な優雅な書風を一変させた。このひとの書のファンは多いです。
文、画、書、の名人たちですが、かれらも官僚です。芸術家という商売は、まだありません。芸術は貴族階級がたしなむものなのです。
工芸では唐三彩(とうさんさい)。これは人名ではありませんよ。陶器の名前。このように何色もの色つけがしてある。置物ですね。
作品の題材は中央アジアのものが目立ちます。ラクダにイラン人が乗って、琵琶を弾いている。こういうものが有名。唐の国際性があらわれているね。
学問
儒学は官僚登用試験の科目にも採用されて、隆盛。
南北朝時代に、儒学のテキスト五経の解釈はわかれて統一が必要だった。解釈がわかれていては試験問題にもしにくいしね。太宗がこれを命じたのが孔穎達(くようだつ)(574~648)。「五経正義」という政府公認の儒学のテキストをつくった。
これ以来、官僚をめざす受験生はこれを参考書にして勉強した。勉強には便利だったけれど、これを理解すればよいので、儒学の解釈は固定化しました。
宗教
道教は則天武后や玄宗の保護を受けて隆盛です。
しかし、話は仏教です。
仏教はますます中国に深く浸透して、僧侶のなかで本場インドに留学したいと思うものがでてくる。
東晋の時代に、法顕(ほっけん)という僧がインドに旅行して「仏国記」を残していますが、唐ではさらに有名な人がでた。
玄奘(げんじょう)(602~664)です。三蔵法師の名でお馴染み。
13歳で出家した。天才少年で、あっというまに先輩たちを追い抜いて仏教の理論を吸収していった。20歳をこえる頃には、大人に講義をするほどになっていた。勉強するほどにわからないところがでてくる。だけれど、玄奘の疑問に答えられる人は中国にはいないのです。
疑問を解決するためには本場のインドにいくしかない。ところが、当時国外への旅行は禁じられていたのです。けれど、どうしても、いきたい。とうとう国境警備隊の監視をかいくぐって、国境線を突破、国外脱出に成功した。27歳の時です。太宗李世民の時代でした。
インドへの旅の困難さが、やがて『西遊記』の物語になった。これは後世に描かれた玄奘の絵ですが、背中にでっかい荷物を背負ってるでしょ。一切合財ここに詰め込んで旅にでた。首飾り見えますか? これ、小さいけれどドクロですね。ドクロを首に巻いている。魔除けです。実際の玄奘はドクロを巻いていなかったと思いますが。妖怪が出てくるような人外魔境をゆくというので、こんな絵になったのでしょう。
インドでも学識の高さで有名になって、ヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ王にも招かれた。王にすっかり気に入られて、たくさんのお経を持って645年帰国します。帰りは何頭もの馬に何百巻もの経典を積んで、お付きの者もつけてもらっての旅でした。
唐の国境のまじかまで来るのですが、玄奘帰ることができない。だって、密出国ですから、帰れない。そこで、かれは長安の太宗皇帝に手紙を出した。自分は唐の僧ですが、仏教を学ぶために国法を破ってインドに行きました。留学を終えて帰ってきたのですが、どうか入国を認めてください、とね。
太宗、歓迎して玄奘を迎えます。貴重な西域、インドの情報源と考えたんでしょう。玄奘のために寺を建てて経典の漢訳を援助した。何十人もの助手をつけて翻訳を手伝わせた。
現在、長安の観光名所大雁塔(だいがんとう)は、玄奘が持ち帰った経典を保存するために建設されたものです。
また、太宗の命令で玄奘が書いた西域旅行記が「大唐西域記」です。
もう一人、インドへおもむいた僧に義浄(635~715)がいます。
かれは陸路ではなく、南シナ海を通っていきました。旅行記が「南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)」。東南アジアの諸民族の貴重な記録となっています。
唐の時代は禅宗、浄土宗、天台宗、真言宗など宗派が形成される時代で、仏教が中国化しはじめているときでした。
日本からの留学僧は、そういうなかで最新流行の宗派を持ち帰って日本に紹介したわけです。有名なのが空海の真言宗、最澄の天台宗ですね。
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