安史の乱と最期
天宝14載(755年)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。
翌天宝15載(756年)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。6月に玄宗は首都長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。
しかし、馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に到着すると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは、玄宗に対して「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言により、やむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。
『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。この時、南方から献上のライチが届いたため、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられている。陳玄礼らによって、楊の死が確認され、遺体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。
玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。
エピソード
中国史におけるもっとも著名な女性であり、数多くの伝承が伝えられている。
非常に有名なエピソードとして、楊貴妃が日持ちの効かないレイシ(ライチ、茘枝)を大変に好み、産地の嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことが伝えられている。このエピソードは後述の通り、後世にも大きな影響を与えた。
『楊太真外伝』などに、開元28年(740年)に後宮に入った時から天宝14載(755年)までの、楊貴妃に関する多くの伝承が伝えられている。
『楊太真外伝』によると、楊一族の隆盛と横暴、玄宗の楊貴妃へのあまりの寵愛に「女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな」というはやり唄が長安で唄われ、玄宗と共にたびたび教坊の芸人たちの音楽・歌舞・技芸、あるいは文人たちの詩会を見て楽しんでいた。ある日、玄宗が諸王(唐王朝の一族)を招いて宴を行ったところ、木蘭の花の様子に玄宗が不興を感じていることを見て取り、酔いながらも霓裳羽衣の曲の舞を踊って取りなし、玄宗を喜ばせたことがあった。
別の日、玄宗が作曲を行った演奏会では琵琶を担当し、王や郡主(王の娘)、楊貴妃の姉妹はみな彼女を師とあおぎ、一曲作成するごとに多くの贈り物がなされた。この演奏会の時、謝阿蛮という妓女に与えた紅粟玉の腕輪は高句麗から得た宝物であった。
磬(打楽器の一種)の名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがなかった。彼女の琵琶はラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものであった。また彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もあった。また「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって世に広められたと伝えている。
興慶宮の沈香亭において、玄宗が李白に作詩させ李亀年に歌わせた「清平調詞」において、李白の詩に自分を趙飛燕にたとえた部分があった。このことを高力士に指摘され、侮辱と思い李白の官位授与を妨げた。そのため玄宗が趙飛燕の話題を避けた話や「そなたなら風に飛ばされない」とからかった説も伝えられ、楊貴妃が豊満であったのではという説の根拠となっている。なお、この話題を出した時、楊貴妃が「霓裳羽衣は舞えますのに」と不機嫌になったため、玄宗は「虹霓」という名の屏風を贈っている。
玄宗が毎年10月に華清宮(温泉宮)に赴き、その冬を過ごす時に楊貴妃が同じ輿に乗り、端正楼に住み蓮花湯という温泉に入っていたことも知られる。
他に玄宗とともに二つが合わさった蜜柑を食べて、その姿を絵に描かせた話や、嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話がある。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っている。
玄宗が親王と碁を打っている時、玄宗が負けそうになると狆を放して碁盤を崩し、玄宗に喜ばれた。また、つけ髷で髪を飾り、黄色の裙(長い裳)を好み、龍脳(香料の一種)をつけていたため遠くまでその香りがして、衣を通してその香りか領巾に移るほどであったとも伝えられる。
天宝14載(755年)6月、彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。
二日酔いに苦しんだ後、庭の花の露を飲んで肺を潤した説話、玄宗とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ました説話、豊満な肉体であったため夏の暑い時に口に玉でできた魚を入れて暑さを癒した説話がある。
また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっている。
『開元天宝遺事』によると、楊貴妃は夏になるとよく汗をかき、臭いを放っていた。汗を溜めた肌は赤く見え、拭うとその赤色が布に移ったという。
白居易の詩『新楽府』の一首「胡旋女」では、楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した舞を舞っていたという描写がある。
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