2024/03/22

乙巳の変(1)

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し、大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密には乙巳の変に始まる一連の政治制度改革を大化の改新と言い、乙巳の変は大化の改新の第一段階を言う。

 

乙巳の変の経過

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蘇我氏全盛の時代

推古天皇30222日(62248日)(同3025日説もある)、摂政・厩戸皇子(聖徳太子)が薨去した。聖徳太子の死により大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は皇室を凌ぐほどになった。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。

 

推古天皇34520日(626619日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇3637日(628415日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。

 

有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、山背大兄王は用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であり、加えて、このような皇族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁していることを嫌った故・推古や蝦夷などの支配者層は、田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させた。これが舒明天皇である。

 

蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。大派皇子(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。

 

舒明天皇13109日(6411117日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の勢力は、更に甚だしくなった。

 

皇極天皇元年(642年)7月、日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と皇室が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、皇室が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。

 

同年には、蝦夷は父祖の地である葛城の高宮に祖廟を造り、『論語』八佾篇によれば、臣下が行ってはならないとされる八佾の舞を舞わせたという。これは蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究では八佾の舞とは『論語』の中の存在であり、『日本書紀』でこの語が用いられているのは単なる修飾であるとされ、以上の出来事は単に蝦夷が父祖の地で祖先を祀る祭祀を行ったことを示す記事に過ぎないと指摘されている。

 

また、上の記事に続き、蝦夷と入鹿が自分達の寿墓(橿原市菖蒲町で発見された五条野宮ヶ原12号墳か)を造営し、「陵」と呼ばせ国中の民、部曲、さらに上宮王家の壬生部を造営に使役したことが記され、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、この記事も『礼記』や『晋書』などの漢籍が多く引用されていることなどから、実態はかなり異なるもの(臣下としての立場を超えないもの)であったと考えられている。

 

皇極天皇2106日(6431122日)、蝦夷は病気を理由に、非公式に「紫冠」を入鹿に授け大臣(オホマヘツキミ)とし、次男を物部大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)とされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば蘇我氏内部の氏上の継承はあくまで氏族内部の問題であり、冠位十二階から独立した存在である「紫冠」は、蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったとされる。

 

皇極3年(644年)には、蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門」、「谷の宮門」と称し、入鹿の子供を「王子」と呼ばせ、蝦夷の畝傍山の東の家(橿原市大久保町の橿原遺跡か)も含め、これらを武装化したとされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、「宮門」や「王子」という呼称は『日本書紀』の文飾であり、専横を示す記事と考える必要はないとされる。緊迫の度を増している東アジア国際情勢を考えれば、国政を司る蝦夷や入鹿が、飛鳥の西方の防御線である甘樫丘や、飛鳥への入り口である畝傍山東山麓の防備を固めるということは施政者として当然の措置であり、これらのことは蘇我氏主導による国防強化という政策であったことが考えられる。なお、「上の宮門」、「谷の宮門」のどちらかとされる甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥板蓋宮を見下ろすことはできない。

 

上宮王家の滅亡

皇極天皇2111日(6431216日)、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ入鹿は、巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。そこで側近の三輪文屋君からは、東国へ逃れて再挙することを勧められるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると採り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺。このことによって、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。

 

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには、敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。

 

また、入鹿に従い山背大兄王討伐軍の将軍となった巨勢徳太は、大化の改新後の政府で左大臣に任命されているほどの有力なマヘツキミであった。『日本書紀』で入鹿の独断が強調されているのは、「偉大な聖徳太子の後継者を独力で滅ぼした邪悪な入鹿」という人物像を作り上げるためであったと考えられる。

 

さらに、『藤氏家伝』によれば、山背大兄王の襲撃には、軽王(のちの孝徳天皇)など、多数の皇族が加わっており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

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