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ラロはスペインと名前のついた作品を生み出したが、フランスで生まれてフランスで活躍し、フランスで亡くなった。ただし、お祖父さんの代まではスペインで暮らしていたため、スペインの血は流れていたらしい。
彼は1823年にフランスのリルという小さな町で生まれ、その後パリに出てパリ国立音楽院でヴァイオリンと作曲を学んだ。そして20代の頃から、歌曲や室内楽曲を作曲して作曲家としてのキャリアをスタートさせようとしたが、これが全く評価されず失意の日々を過ごしす。その内に作曲への夢も破れ、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者という実に地味な仕事で生計を立てるようになった。
このようなラロに転機が訪れたのが、アルト歌手だったベルニエと結婚した42歳の時だ。ベルニエはラロを叱咤激励し、再び作曲活動に取り組むように励ました。ラロも妻の激励に応えて作曲活動を再開し、ついに47歳の時にオペラ「フィエスク」がコンクールで入賞、その中のバレー音楽が世間に注目されるようになる。
そんな彼をさらに力づけたのが、1874年にヴァイオリン協奏曲がサラサーテによって初演されたことだった。その翌年には、この「スペイン交響曲」が生み出され、同じくサラサーテによって初演され遂に大成功を収める。
これ以外にも「ロシア協奏曲」とか「ノルウェー幻想曲」というようなご当地ソングのようなものをたくさん作曲しているが、これは当時流行し始めた異国趣味に便乗した側面もあった。しかし華やかな色彩感とあくの強いエキゾチックなメロディは、そういう便乗商法を乗り越えてリスナーの心を捉える魅力を持っている。
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