2007/05/29

 4月途中から、新しい現場に入っている。

収入は前職に比べて大幅にダウンしたが、これまでに希望しながら経験できなかった通信技術の上流工程に携わる事が出来るという話であり、またスキル向上とともに半年単位で契約を見直す、というのが当初の話であった。ところが、早くも話が変わって来たから厄介だ。

当初から、クライアントのN某では派遣契約(業務委託なども含む)に関して、監査の指摘に対応しなければならないという話は聞いていたが、その絡みで7月から今の元請Sierの手を離れ、直接契約に切り替えてくれというお達しがあったらしい。直接契約であれば、元請を介さずに何かと話が通りやすくてよさそうに聞こえるが、これまでこの分野では経験のないワタクシの盾となってくれていた、元請会社の担当者の援護は当てに出来ない中で、早くも成果を求められるという無理難題を押し付けられるハメになったのである。

まさに、青天の霹靂だ。無論、この1ヶ月の間ワタクシも寝ていたわけではないから、それなりに新しい技術も習得して、CISCOを始めNECやら日立やらのNW機器については基本をマスターして、応用できるところまでにスキルを身につけた事は確かである。

とはいえ、この道ン年~ン十年といったバリバリのスキルを持った人材の揃っているN某の要求に応えるには、まだまだ時期尚早である事は言うをまたない。なにせまだ、新しい事を始めてから1ヶ月なのである。

(ともかく、玉砕覚悟でNGを突きつけられるまでは、己の技術向上を目指して頑張ってみるか・・・リスクが大きく高まる分だけ、最低ラインを割り込んでいた給与も大幅にアップする事だろうし・・・)

と、プラスマイナス両面を推し量っていたのだった。

ところが信じ難い事に、所属会社からは

「給与等の諸条件は、当面据え置きで・・・」

というフザケタ話が出るに及び、怒りは頂点に達した。

(この分野は経験がないのだから、担当者からの教育含みで・・・)

との理由で、希望や相場を遥かに下回る条件も

(技術の修行になるのなら・・・)

と泣く泣く飲んで引き受けた大前提が、向こうの一方的都合で反故にされたのにも拘らず、責任だけ押し付けられてそれに見合う対価が払われないのでは、最早サギというしかない。

「そんなバカゲた話になど、付き合ってはいられん」

と、インチキ会社には引導を渡した。

話を聞いていると、どうも当初からわかっていたような胡散臭さを拭いきれないのも、ワタクシを激怒させた。相手は、甘い目算から

(はい、そうですか・・・)

と、N某の決定に唯々諾々と従うとでも思い込んでいたらしく、唖然としていたようだったが、そんな甘いものではないのだ。

今後、いかに説得されようとも、来月1ヶ月業務をこなしながら磨きこんでいく新たなスキルを手土産に再度、軌道修正の旅へと出る事になる決意に変わりはない。

2007/05/26

ちゃんぽんの由来(前編)



 では、ちゃんぽんのルーツを探る旅へと、出る事にしましょうか。

<ちゃんぽんのルーツは、福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。  湯肉絲麺は、麺を主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代・陳平順(ちんへいじゅん)が、ボリュームをつけて濃い目のスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽん』である。

今日では、缶詰や冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時はそういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海で獲れる海産物、蒲鉾、竹輪、イカ、うちかき(小ガキ)、小エビ、もやし、キャベツを使ったのが、ちゃんぽんの起こりとなった。

季節による食材を使っていた事から『ちゃんぽん一杯で、四季が感じられる』料理と言われ、また『和』と『華』の融合、長崎の山海の幸から、長崎だからこそ創りだされた郷土料理とも言われている>

別の説もある。

<鎖国時代、日本で唯一の開港地として外来文化を受け入れ独自の文化を育てた長崎は、料理にも異国の味が漂うと言われます。中でもちゃんぽん・皿うどんは、深い関わりのあった中国の影響を受けて長崎が生み出した日中混合の庶民の味として、名物のひとつとなっています。

ちゃんぽんの語源には、諸説あります。

1
.中国、福建省の方言で、簡単な御飯の意味の「喰飯(シャンポン)」が訛ったもの。

2
.ポルトガル語の「チャンポン(混ぜる・混合する、の意味)」が訛ったもの。

3
.当時の中国人の呼び方である「チャン」と、日本人の「ポン」を取ってチャン+ポンと名付けた。

など料理の特徴と同じように、語源まで諸説が混合しているようです>

<麺は、麦粉に唐灰汁(とうあく)を入れて作った独特のものだが、独特の風味が出てまた腐敗防止にもなる。ラーメンや中華麺は、かんすい(炭酸カリウム約90)で小麦粉を捏ねるが、ちゃんぽんの麺は唐灰汁(炭酸ナトリウム約90)の水で捏ねた長崎特有のもので、福建地方の食文化が活かされている>

 <こうしたちゃんぽん、今では長崎市を中心に50社余りが製造しており、その生産額は10億円を超えると言われる。現在、長崎市内には百数十軒の中華料理店があるが、ちゃんぽんを供する店は更に多く千軒以上あると言われる>

では、いよいよ「ちゃんぽん」の由来を探っていく。

<ちゃんぽんの由来も、諸説あります。

「明治初年、長崎人である本吉某が、丸山にて支那うどんをちゃんぽんと名付けて開業したもので、ついにちゃんぽんは支那うどんの固有名詞となった」

と、文献に残されています。

また「勝海舟が丸山でちゃんぽんを食べ、とても喜んだ」とも語り継がれています。

この他、福建省の人たちが長崎市内(現在の新地中華街や館内)に出て、庶民相手に商売をするようになった頃、その明治30年代に陳平順が貧しい中国人留学生に、安くて栄養のあるものを食べさせようと、野菜くずや肉の切れ端などを炒め、中華麺を入れスープで煮込んだボリュームたっぷりの料理を作り上げ、ちゃんぽんと名付けたとも言われています。

どの説にしても、麺好きの日本人の嗜好を巧みにとらえた、その名の通りまさに日本と中国が混合(ちゃんぽんになった)した料理と言えます>

<『ちゃんぽん』のという名称の由来は当初、支那うどんと名付けられていたものが、明治時代の後期頃からどのようにして『ちゃんぽん』と呼ばれるようになったのか?

中国語というと、一般的に北京語(普通語)のことを指すが、広大なこの国には数えきれないほどの方言があり、その方言も殆ど外国語のようなものでコミュニケーションがとれない事が少なくない。

その一つに福建語があり『吃飯(福建語でシャポン、又はセッポンと発音する)』という言葉がある。

『ご飯を食べる』という意味だ。

当時、親しい人に出会った時『 (ご飯を食べたか?)』と挨拶していた。その時々の関心事が挨拶になる事は世の常であり、例えば、梅雨などの天気であったり商売が儲かっているかどうかなど・・・>

2007/05/25

リヒャルト・シュトラウス 交響詩『英雄の生涯』(3)


 4.Des Helden Walstatt (英雄の戦場)

 展開部に相当する。

 突如、舞台裏からトランペットが鳴り響き、敵との戦いが始まる。このトランペットのファンファーレは、戦いの場に入ったことを暗示している。ファンファーレが英雄の動機を挟んで再度繰り返された後、次第に騒々しい雰囲気になって来る。

 

 小太鼓のリズムに乗って「敵」のテーマがトランペットに出て来て行進曲風に進んで行くが、3拍子で描かれているため激しさと同時に、どこかパロディ風のユーモアも感じさせる。敵を表す強力無比な金管群・木管群が舌鋒鋭く英雄を非難するが、英雄(低弦とホルン)は雄々しく戦う。ヴァイオリンで表された伴侶も、英雄を支えている。

 

 その後、4管編成をフルに使って既出の主題を戦わせ色彩的に展開していく様子は、まさに「色彩的オーケストラの達人」の面目躍如である。ティンパニ、バスドラム、テナードラムの乱打も加わり、すさまじい戦いのシーンが繰り広げられる。

 

 英雄の自信に満ちた行動に敵は圧倒され、英雄の一撃で敵は総崩れになった批評家を打ち負かし、金管楽器の力強い演奏で英雄の勝利が描かていく。この部分では、ホルン4本によるハイトーンが聞き所になります。

 

 英雄は満ち足りた状態となり、敵の非難は弱くなっていく。英雄の華々しい勝利が歌い上げられ、英雄と伴侶は手を携えて登場する。

 

5.Des Helden Friedenswerke (英雄の業績)

 再現部とコーダの前半部分に相当する。

 曲は落ち着いた感じになり、これまでのシュトラウス作品がコラージュ的に提示される。『英雄の生涯』自体の動機に加え『ドン・ファン』、『死と変容』、『ドン・キホーテ』、『マクベス』、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』など、よくぞこれだけという感じで主題が絡み合って演奏されていく。ここに出てくる曲が全部分かれば、かなりの「シュトラウス通」と言える。次第にテンポがゆっくりになり、英雄は自己の内部を見つめるようになる。

 

この曲を作った時、シュトラウスはまだ30代だったが、回想すべきほど沢山の曲があるという点も凄いところで、この時期がシュトラウス自身の黄金時代(の一つ)だったことは確かと言える。シュトラウスは『英雄の生涯』以降は交響詩を創っていないため、まさに交響詩時代の締めくくりという内容に相応しい。

2007/05/24

リヒャルト・シュトラウス 交響詩『英雄の生涯』(2)

 


3.Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)

 緩徐楽章に相当する。

 第3部は、独奏ヴァイオリンで始まる。このヴァイオリンが演奏する動機は「英雄の伴侶」を示している。ヴァイオリン・ソロを恋人に見立て、英雄と2人が結ばれるまでを描いている。オペラのレチタティーヴォのやりとりをヴァイオリン協奏曲にしたような部分で、協奏曲顔負けのヴァイオリンの名人芸が堪能できる。

 

 次第に楽劇「ばらの騎士」を先取りしたような甘美さも登場する。

 愛する女性の出現にもかかわらず英雄は行動を続けようとするが、次第に彼女に心惹かれていく。伴侶のテーマも英雄に惹かれたり、英雄を拒否するようなそぶりを見せたりしながら、やがて2人の心は一つになり壮大な愛の情景が描かれる。

 

 この部分の最後の方では、2人を邪魔するかのように「英雄の敵」の動機が出て、敵のテーマが回帰し英雄を嘲笑するが、愛を得た英雄は動じない。最後に舞台裏から突如トランペットが聞えてきて、第4部へと移る。

 

 当初、シュトラウスが扱った標題は「マクベス」や「ドン・ファン」や「ティル」のような、作曲家の体験や生活からは離れた相対的なものだった。その様な時は、それぞれの標題に見合った単一の主題で「つくりもの」のように一つの世界を構築していっても、それほど嘘っぽくは聴こえなかった。そこにおける主題処理の見事さとオーケストラの扱いの見事さで、リストが提唱したこのジャンルの音楽的価値を飛躍的に高めた。

 

 しかしシュトラウスの興味は、その様な「つくりもの」から、次第に「具体的な人間のありよう」へと向かっていく。そして、そこに自分自身の生活や体験が反映するようになっていくのである。そうなると、ドン・ファンやティルが一人で活躍するだけの世界では不十分であり、取り扱うべき標題は複雑化して行かざるをえなくなった。

 

 そのため、例えば『ドン・キホーテ』では登場人物は2人に増え、結果としては幾つかの交響詩の集合体を変奏曲形式という器の中にパッキングし、単一楽章の作品として仕上げるという離れ業をやってのけてもいる。

 

 その事情は『英雄の生涯』においても同様で、単一楽章と言いながらもハッキリと6つの部分に分かれるような構成になっている。それぞれの部分が個別の標題の設定を持っており、その標題がそれぞれの「主題設定」と結びついているため、これもまた交響詩の集合体と見て不都合はない。

 

 つまり、シュトラウスの興味が、より「具体的な人間のありよう」に向かえば向かうほど、もはや「交響詩」というグラウンドは、シュトラウスにとっては手狭なものになっていったのである。

 

 シュトラウスは、この後『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』という二つの作品を生み出すが、それらはハッキリとした複数のパートに分かれ、リストが提唱した交響詩とは似ても似つかないものになっていった。そして、その思いはシュトラウス自身にもあったようで、これら二つの作品においては「交響詩」というネーミングを捨てた。

 

 このように「交響詩」というジャンルにおいて、行き着くところまで行き着いたシュトラウスが自らの興味の赴くまま、より多くの人間が複雑に絡み合ったドラマを展開させていこうとすれば、進むべき道はオペラしかなくなった。彼が満を持して次に発表した作品が『サロメ』であったことは、このような流れを見るならば必然といえる。

 

 そして、1幕からなる「サロメ」を聞いた人たちが「舞台上の交響詩」と呼んだのは、実に正しい評価だった。そして、この「舞台上の交響詩」という言葉をひっくり返せば『英雄の生涯』は「オーケストラによるオペラ」と呼ぶべるのかもしれない。

 

 シュトラウスは、この交響詩を構成する6つの部分に、次のような標題をつけた。

 

    1部「英雄」

    2部「英雄の敵」

    3部「英雄の妻」

    第4部「英雄の戦場」

    第5部「英雄の業績」

    第6部「英雄の引退と完成」

 

 こう並べて見ると、これを「オーケストラによるオペラ」と呼んでも、それほど見当違いでもない気がする。