2007/05/24

リヒャルト・シュトラウス 交響詩『英雄の生涯』(2)

 


3.Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)

 緩徐楽章に相当する。

 第3部は、独奏ヴァイオリンで始まる。このヴァイオリンが演奏する動機は「英雄の伴侶」を示している。ヴァイオリン・ソロを恋人に見立て、英雄と2人が結ばれるまでを描いている。オペラのレチタティーヴォのやりとりをヴァイオリン協奏曲にしたような部分で、協奏曲顔負けのヴァイオリンの名人芸が堪能できる。

 

 次第に楽劇「ばらの騎士」を先取りしたような甘美さも登場する。

 愛する女性の出現にもかかわらず英雄は行動を続けようとするが、次第に彼女に心惹かれていく。伴侶のテーマも英雄に惹かれたり、英雄を拒否するようなそぶりを見せたりしながら、やがて2人の心は一つになり壮大な愛の情景が描かれる。

 

 この部分の最後の方では、2人を邪魔するかのように「英雄の敵」の動機が出て、敵のテーマが回帰し英雄を嘲笑するが、愛を得た英雄は動じない。最後に舞台裏から突如トランペットが聞えてきて、第4部へと移る。

 

 当初、シュトラウスが扱った標題は「マクベス」や「ドン・ファン」や「ティル」のような、作曲家の体験や生活からは離れた相対的なものだった。その様な時は、それぞれの標題に見合った単一の主題で「つくりもの」のように一つの世界を構築していっても、それほど嘘っぽくは聴こえなかった。そこにおける主題処理の見事さとオーケストラの扱いの見事さで、リストが提唱したこのジャンルの音楽的価値を飛躍的に高めた。

 

 しかしシュトラウスの興味は、その様な「つくりもの」から、次第に「具体的な人間のありよう」へと向かっていく。そして、そこに自分自身の生活や体験が反映するようになっていくのである。そうなると、ドン・ファンやティルが一人で活躍するだけの世界では不十分であり、取り扱うべき標題は複雑化して行かざるをえなくなった。

 

 そのため、例えば『ドン・キホーテ』では登場人物は2人に増え、結果としては幾つかの交響詩の集合体を変奏曲形式という器の中にパッキングし、単一楽章の作品として仕上げるという離れ業をやってのけてもいる。

 

 その事情は『英雄の生涯』においても同様で、単一楽章と言いながらもハッキリと6つの部分に分かれるような構成になっている。それぞれの部分が個別の標題の設定を持っており、その標題がそれぞれの「主題設定」と結びついているため、これもまた交響詩の集合体と見て不都合はない。

 

 つまり、シュトラウスの興味が、より「具体的な人間のありよう」に向かえば向かうほど、もはや「交響詩」というグラウンドは、シュトラウスにとっては手狭なものになっていったのである。

 

 シュトラウスは、この後『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』という二つの作品を生み出すが、それらはハッキリとした複数のパートに分かれ、リストが提唱した交響詩とは似ても似つかないものになっていった。そして、その思いはシュトラウス自身にもあったようで、これら二つの作品においては「交響詩」というネーミングを捨てた。

 

 このように「交響詩」というジャンルにおいて、行き着くところまで行き着いたシュトラウスが自らの興味の赴くまま、より多くの人間が複雑に絡み合ったドラマを展開させていこうとすれば、進むべき道はオペラしかなくなった。彼が満を持して次に発表した作品が『サロメ』であったことは、このような流れを見るならば必然といえる。

 

 そして、1幕からなる「サロメ」を聞いた人たちが「舞台上の交響詩」と呼んだのは、実に正しい評価だった。そして、この「舞台上の交響詩」という言葉をひっくり返せば『英雄の生涯』は「オーケストラによるオペラ」と呼ぶべるのかもしれない。

 

 シュトラウスは、この交響詩を構成する6つの部分に、次のような標題をつけた。

 

    1部「英雄」

    2部「英雄の敵」

    3部「英雄の妻」

    第4部「英雄の戦場」

    第5部「英雄の業績」

    第6部「英雄の引退と完成」

 

 こう並べて見ると、これを「オーケストラによるオペラ」と呼んでも、それほど見当違いでもない気がする。

0 件のコメント:

コメントを投稿