《1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河岸にあるホテル・ロンドラ・パレスにて、この曲を書き上げた。
ホテルの壁面には
「ロシアの偉大な作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが、1877年12月2日から16日まで滞在し、ここで4番目の交響曲を作曲した」
と彫られた碑文が誇らしげに掲げられている。
この時期、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的な余裕が生まれた。
これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、本作のような大作を創作する下地となった。このことに対する感謝の意を表して、本作はメック夫人に捧げられた。
なお、1878年3月1日づけ(ロシア暦、同2月17日付)の有名な手紙の中で、チャイコフスキーはメック夫人にあてて、この交響曲のプログラムに関する説明を試みている。この手紙は、交響曲第4番についてのみならず、彼の創作全般についての示唆を与えてくれる貴重なものである。
メック夫人は、鉄道技師でロシア最初の鉄道建設者・経営者カルル・メック(1819-76)の夫人で、5男6女の子供を持つ未亡人だ。無類の音楽好きで、チャイコフスキーの作品の虜となっていった。
そして、彼のスポンサーになることを思いつき(6000ルーブルの年金を申し出た)、1876年、ヴァイオリンとピアノのための作品を、かつて音楽院での和声理論の教え子ヴァイオリニスト、コテック(チャイコフスキー愛人の1人と思われている)を介して依頼してきた。
当時1876年12月18日、手紙と多額なお礼が送られてきた(当時彼女は45歳、チャイコフスキー36歳)
これ以後、14年に渡り文通が続く。チャイコフスキーの手紙760通、メック夫人の手紙451通が残っているが、2人はついに1度も会うことなく文通だけの奇妙な交際が続く。
1890年9月末、突然に財政的困難を理由に援助を一方的に打ち切ってきたが、これは全くの嘘でチャイコフスキーは激怒した。その後、お抱え音楽家をドビュッシー(1862-1918)に乗り換えている。ともあれチャイコフスキーは、彼女の援助のお蔭で音楽院を辞め作曲に専念できただけでなく、借金の肩代わりや外国生活のための費用なども度々受けた。
第2楽章について、チャイコフスキーは
「これは悲哀の音楽です。仕事に疲れた果てた人々が真夜中に、放心したような心持ちで座っている時のような、憂鬱な感情です。手にした本も滑り落ち、過去の思い出が次々と湧いてきます。
過ぎし日を懐かしむことは楽しいことですが、こんなに多くのことが過ぎ去ってしまったのは何と悲しいことでしょう。それは、決して戻って来ないからです」
と述べている。
この楽章は、美しい旋律に満ちたいかにもチャイコフスキーらしい音楽だが、あまりに感情過多なため鼻につくという意見も聞かれる》
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