2007/06/30

(;´д`)ゞ アチィー!!

 早いもので、6月も今日で終わりである。

思えば、東京に出て来たのが3年前の620日頃だったが、ちょうどこんな蒸し暑い時期だった。気づけば3年・・・長かったような短かったような3年だったが、ワタクシにとっては大きな転機だったから、東京云々は別にしても色々と激動があった3年だった気がする。

石の上にも三年」と言う通り、当初はまったく勝手が違って戸惑いの連続だった東京の生活にも、どうにか馴染んできつつある。この先、いつまで東京に居続けるかはわからないが、恐らくまだしばらくは居る事になるのだろう。

7月生まれのワタクシは、人からはよく

「やっぱり夏男は、暑さに強い」

とか言われたるほど、人の目には涼しげに映っていたらしいが、そのワタクシにも東京の蒸し暑さは、かなり堪える。生まれ育った名古屋(近辺)は「日本一の蒸し暑さ」で有名だったから、名古屋を離れる時期が夏だった事もあって

(ようやく、この蒸し暑さから逃れられるぞ・・・)

と密かに喜んだものだったが、名古屋に比べればカラっとしていると思っていた東京の夏も、どうやら同じような蒸し暑さらしい ( ̄▽ ̄;)!!ガーン

東京の場合は、またあの人の多さが暑さにさらに拍車をかけていて、どこへ行っても

(なんと、人が多いのか?)

と呆れるほどである。

今、住んでいる吉祥寺というところが、また人の多いところで、ゴミゴミとした狭い空間を人々がぶつかりそうにして行き交っているのが、日常的な風景だった。

その吉祥寺に、昨日(29日)ヨドバシカメラマルチメディア館がオープンしたらしい。前に三越や大塚家具(IDC)が入っていた場所であり、あの話題になった秋葉原マルチメディア館に次ぐ、大型店舗らしいのである。

東京に出て来て以来、新宿西口の小田急ハルクにあるビックカメラの常連だったワタクシだが、この「ヨドバシカメラマルチメディア吉祥寺」は自転車なら5分で行けてしまう距離であり、幸か不幸かこの手のものには衝動買いをしてしまう癖のあるワタクシである。

事実、名古屋にビックカメラが出来た時も、たいした大物は買っていなかったにもかかわらず、3ヶ月で5万円もの散在をしていた「前科」もあった。

(これで、また多摩地区から吉祥寺に人が押し寄せて、混雑と暑さに一層拍車が掛かるのか・・・)

と便利になった嬉しさと引き換えに、またしても頭を抱える事に (-ω-#)y-~~~~

2007/06/25

穴切(前編)


<『菱の郷土史』(菱町郷土史編纂委員会編 1970年)をめくってみると、穴切の地名の由来について「地形上から村の最後の端なる故、切りと云う字を使用したのか、しかもその切れに深き沢川があったため、この名がついたか・・・」  と書かれている。つまり「」とは深い沢、「」とは端、外れという意味ではないかと推測している。

『桐生市地名考』という、町名から小字まで含めた桐生の全地名の由来について考察した資料には

「東西に長い穴の様な沢であるが、沢奥である東側が口のようにあいている沢」

「行き止まりにならないで、東からも入れるのでついた地名」

と書かれている。

」とは穴のような狭く、細長い沢を指し「」とは途切れがある、つまっていない、閉じられていないというような意味らしい。要するに、沢の地形の特徴を言い表しているのである。双方とも「穴」については細長く深い沢を意味するとしており、見解が一致している。だが「切」については、意見が分かれるようである。

『菱の郷土史』では

「物事の終わり、切れ目、区切りといった、それが最後である事を表現する言葉」

として「切」を解釈している。

一方の『桐生市地名考』では

「閉じられていないで、開いているという状態を意味する」
としている。

穴切の「切」の字から連想されるのが「道切り」という言葉である。「道切り」とは、村境において外来の侵入を防ぎ止めようとした呪術の事である。

『地名のはなし ―群馬の地名のルーツを探る―』に

「ほぼ県下一円に分布していた八丁じめの習慣で、これはまた土地ごとにフセギ・厄神ヨケ・道切り」

などと称していた。「村境に草鞋や神札を立て、標(しめ)を張るもの」という説明がある。つまりは、村の境界に道切りを置いたのである。

穴切峠が、桐生(群馬県)と田沼(栃木県)の境界になっていた事を考えると「切」には「村の端、村界」という意味が込められているのではないかと思う。 穴切峠の位置は、行政的には栃木県で実際の県境とは違うのだがここで言う境界とは、この峠を越えて行く旅人の感覚としての境界、という意味である。

穴切峠は、昔は上野の国と下野の国の国境という感じだったのではないか。 峠の向こうは下野の国・・・というように。穴切の地は、上野の国の「区切り」だから「切」の字が使われた。ただし、これは道切りと穴切の語感が似ている事からくる、勝手な解釈ではあるが・・・

 『桐生市地名考』では穴切の「切」を奥が切れている、開いているという意味に解釈している。沢の奥が閉じておらず、切れているという事は向こう側へ行ける、つまりは道が開けているという事を意味している。そうなると、穴切の「穴」とは向こう側へ抜ける抜け穴、という風にも取れるのではないか。

思うに峠とは、山を越える場所であるとともに、異なる村や国との境界、異国・異郷への出入り口でもある。穴切という地名は土地の奥が行き止まりにならず、向こう側へ抜けているという由来を持つ事で、その地名自体がそこに峠がある事をも示しているように思える。

また峠はある土地から、別の場所へと人や物が移動していく場所である。往来が盛んになれば、そこは交通の要所となって商業の発展や文化の交流を促進させる役割を果たす。それと同時に、追われる立場の者や異なる世界へと抜け出そうとする者たちが、こっそり通り抜けていく場所でもあった。江戸時代に名だたる峠に関所が置かれたのは、そのためである。

これらの点を考え合わせると、穴切峠という峠の名は山越えの場所や交通の要所といった峠の表向きの役割とはまた違う、異国・異郷への抜け道という峠の裏の一面も暗に示している名前のように思えてくるのである。
 
穴切の地に、穴切峠の名前の由来に関する伝説が伝わっている。下野の国で戦に敗れ追手から逃れた落武者が、なんとか上野の国まで逃げのびる手はないかと山中を彷徨していると、緑の木立の中に木々の重なりが洞穴の入口のようになった場所を見つけた。その緑のトンネルを抜けて、山を下ったところ桐生の地に出た。その雑木の抜け穴があった場所が後年、穴切峠と呼ばれるようになった、というものである。

この伝説は峠名の由来というよりも、穴切の地名の方が先にあって「穴切」という言葉からの連想で、後から作られた話だろうと思われる。地名起源とされる伝説は、その地名にちなんで後から作られたものが多いという。

『続・地名のはなし』の中で、著者は地名解釈において伝説をあてにしてはいけないと主張している。

「それ(伝説が語る地名起源)は、現実の地名起源でない場合が多い。伝説は、あくまで伝説であって史実ではない、また実際の地名起源ではない」

と書いている。

県内の地名伝説の残る地名をひとつひとつ検討したところ、その殆どが地形語から発生した地名で、地名伝説はその地名の語呂に合わせ後から作られた例が殆どだったという。以前、小倉峠の巻で、小倉の地名伝説について書いた。

この伝説は、山田奴に伴われて小倉峠にやってきた白滝姫が「ここは、京都の小倉に似ている」と言った事から小倉という地名がついたというものだが、これも語呂を合わせただけの伝説だろうとしている。小倉の「オグラ」とは「クラ(岩)」に接頭語の「オ」がついたものだそうである。

山梨県の甲府市にも、穴切と呼ばれる地区(昔の町名。行政的な町名としては、今は存在しない。小学校名などとして残っている)がある。ネットで「穴切」を検索すると、ヒットするのは甲府の穴切に関連したものが圧倒的に多い。地名としては甲府の穴切の方が、知名度が高いのであろう。

角川の地名辞典で、甲府の穴切町の項を見ると「地名の由来は、地内にある穴切神社にちなむ」とある。

2007/06/23

ムソルグスキー オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』(リムスキー=コルサコフ編曲) Act 3

 


 完成されたオペラ第1作『ボリス・ゴドゥノフ』は、その上演を求めて1870年の夏に帝室歌劇場管理部に総譜を提出したが、帝室歌劇所側から上演を拒否されてしまう。

 

 これに対しムソルグスキーは憤慨したが、ウラディーミル・スターソフや友人たち(その中には、リムスキー=コルサコフもいた)からの意見を聞いたうえで考え直し、すぐさまオペラの改訂に着手した。改訂版は、1872年の623日に完成された。

 

 1869年に完成した原典版は、1871217日になって歌劇場側から正式に不採用として通知がなされた。原典版は、標準的なオペラの形態から見れば極端に女声役が少ないなど大きく逸脱するものであったため、上演を拒否されたと見られる。

2007/06/22

ムソルグスキー オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』(リムスキー=コルサコフ編曲) Act 2

 


 18689月、ムソルグスキーは官史の勤務先を林野局に転じられたが、折よく幸運にも親友のオポチーニンが家に迎えてくれたため、その好意に甘んじて10月から本格的に作曲に着手した。

 

 勤務先が近くにあり、静寂な郊外の周辺であったため 作曲は滞ることなく186810月から1869年の初夏までに声楽の総譜が完成され、同年の1215日にはオーケストラの総譜も完成した(この時点で初稿を完成させる)

 

 ムソルグスキーはオペラの作曲に着手して以来、しばしば友人たちの音楽サロンで完成した部分を聴かせていたという。

 

 オーケストラの部分は、親友の顧問官ブルゴールドの令嬢ナデージダが受け持ち、ムソルグスキーは自分自身が歌手となって全てのパートを歌ったと伝えられる。

2007/06/21

ムソルグスキー オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』(リムスキー=コルサコフ編曲) Act 1

 


 『ボリス・ゴドゥノフ』 (露:Борис Годунов)は、ムソルグスキーが作曲したプロローグと4幕から構成されるオペラである。

 

 ロシアに実在したツァーリ、ボリス・ゴドゥノフ(1551 - 1605年)の生涯をオペラ化したもので、ムソルグスキーの作曲したオペラの中で、最も有名な作品である。

 

 1868年、ムソルグスキーは当時燃えるような創作意欲と、作曲に没頭できない官史の生活との矛盾に苦しんでいた。その影響があるためか『ボリス・ゴドゥノフ』を作曲する以前の1856年に『アイルランドのハン』、1863年から1866年にかけて、フローベールの原作による『サランボー』、ゴーゴリの原作による『結婚』などのオペラを作曲したが、いずれも未完成に終わっている。

 

 同年春、ムソルグスキーはリュドミーラ・シェスタコーワ夫人の音楽家のサロンにしばしば顔を出し、当時夫人のサロンに出入りしていた歴史家のウラディーミル・ニコルスキーと会い、ムソルグスキーがオペラの題材を探していることを話すと、ニコルスキーは早速「プーシキン物語」の中にある劇詩「ボリス・ゴドゥノフ」を作曲することを勧めた。

 

 劇詩を読んだムソルグスキーは、物語の面白さに心を惹かれ「ボリス・ゴドゥノフ」をオペラ化にすることを決意した。

2007/06/17

感情移入(フィギュアスケート観戦ガイド)part4

 最近、フィギュアスケートを観ていると、困ったことになる。以前にはまったくなかった事だったが、選手に感情移入してしまい段々と平静な気持ちで見るのが難しくなって来つつあるのだ。特に、いつかのオリンピックで多くの国民の期待を受けながら登場し、そのプレッシャーに押し潰されたように、何度も転倒を繰り返した選手などは実に目を覆いたくなるくらいで、とてもではないが正視に堪えないものがあった。

或いは、前回のオリンピックの浅田選手などは、スポーツ芸術としては最高レベルに到達していたのは間違いなかったが、(某選手への「疑惑の採点」という背景も影響から)楽しめる要素がまったくなく、極限までの悲壮な緊張感ばかりが漂っていたのなどは、大いに困ったものだった。

以前なら、オリンピックなどで何度転倒のシーンを見ても

(アホか・・・ヘタクソめ!)

などと、扱き下ろしていたものだったが・・・

どんなスポーツにも言える事だが、漫然と競技を眺めているよりは、その時々の選手の心理を考えた方がより楽しめるわけだが、あまり感情移入が激しくなってしまうと、平静な気分で見ていられないから厄介だ。

一体、なぜなのだろう・・・出てくる選手がみな、若い女性という事もあるかもしれない。事実、男性の競技ではこういった感情とは、トンと無縁なのである。

無論、独身のワタクシに同じような年頃の娘がいるわけはないが、フィギュアスケートの場合は中学生のようなまだ年端もいかない選手が、国民の熱い期待という目に見えないプレッシャーを背負って戦わなければいけない、という過酷な特殊事情が作用するのかもしれない。さらにClassic音楽などの相乗効果がより感情に訴えやすい、という側面もあるのだろう。

人間というよりは、まだ人形さんのようなあどけない少女がベタベタと化粧を施され、あの安キャバレーのホステスのようなわけのわからない派手な衣装を纏い、リンクという誰の助けも求められない大海原へ、決死の覚悟で独り旅立っていく・・あの演技冒頭のシーンから、もう感情移入が始まってしまうのである。そしてミスをした後に、激しく体を動かしながらもプログラム編成の立て直しに、めまぐるしく頭を回転させているのだろう時なども、選手の心理にばかりに気を取られてしまうのだ。

 そうした競技中もさることながら最近、最も観るのがやっかいなのは競技を終えて採点を待つ(特に、大きなミスをした)選手の表情である。これが採点競技の辛いところだが、体操など知らない間に点数が出ているのはまだ良いが、フィギュアスケートだけは競技が終わった選手を写し続けているから、実に始末が悪い。

ミスを犯した選手といえど、そこから逃れる術はないわけだから、あたかも最後の審判を待つような厳かな表情にならざるを得ないのはわかるが、大きなミスを自覚している選手は、点数が出る前から泣きそうな表情になっていたりするのを見ると、稀に見るような非情なシステムだと思う。

(そうした経験を積んでこそ、精神的にも強くなれるのだ)

などという人が居るかもしれないが、そうした偉そうな事が言えるのはあくまで、ヒトゴトだからに過ぎない。

ところで、これまでずっと独身のワタクシでさえこんな気持ちになるのだから、同じくらいの年頃の娘を持つ父親などは、さぞかしどんな気持ちだろうと、浅田選手と二つ違いの13歳の娘を持つ、かつての職場に居たN社のマネージャーに問いかけてみた。

「どうも最近、感情移入が強くなって平静な気持ちでは観ていられないですが・・・独身の私でさえこうだから、同じくらいの年頃の娘さんがいるTさんなどは、さぞかし・・・」

「いやいや、それはにゃべさんだけがおかしいのであって、私はまったくなんとも思わないよ。同じ競技をやってればそういうこともあるかもしれないが、二歳しか違わないといっても、うちのヤツはまだ人間という感じがしないよ・・・  あれは何と言うか、まだサルのようなもんだ・・・」

と、アッサリと一笑に付されてしまいました(*´ー`) フッ

2007/06/14

ブラームス 弦楽四重奏曲第2番(第4楽章)

 


http://www.yung.jp/yungdb/Composer.php

その意味では、ベートーベンの影を意識しすぎるあまり、結果として強い緊張感に満ちた作品となってしまった第1番よりは、どこかシューベルト的な風情が感じられる第2番の方が私には好ましく思えます。また、ブラームスの人生の最も幸福な時代に創作された第3番には、その幸福感が満ちあふれていて、これもまた実に好ましく思えます。

もっとも、暗い緊張感に満ちた第1番も、若い頃に聞いていたならば感想は変わったかもしれません。

 

ブラームスにとって、この3曲で「弦楽四重奏曲」というジャンルから提出された宿題は終わったのでしょう。これ以後、彼はベートーベンがあまり試みなかった楽器の組み合わせで、室内楽作品を書いていきます。弦楽5重奏曲や6重奏曲のように内声部を拡大した組み合わせの方が、彼のロマン的な性向には向いていたいようです。ピアノ四重奏曲や五重奏曲においても事情は同じです。

 

不思議なことですが、ブラームスという男は、終生、ベートーベンを意識しながら、逆にその重荷から解放されたときに、優れた作品を生み出しているように見えます。

それなら、最初から自分の好きなように振る舞えばいいのにと思うのですが、それが簡単にできないのが「人生」というものの難しさなのでしょう。

2007/06/13

ブラームス 弦楽四重奏曲第2番(第3楽章)

http://www.yung.jp/yungdb/Composer.php

ブラームスが残したこのジャンルの作品はわずか3つです。それは、ベートーベンの16と比べるとあまりにもささやかな成果のように思えます。しかし、残された資料を調べてみると、彼は第1番の弦楽四重奏曲を発表するまでに、20曲近い弦楽四重奏曲を作曲していたらしいのです。そして、あまりにも自己批判力強いこの男は、それらの作品を「発表するに値しない作品」として、全て廃棄してしまったらしいのです。

 

シューマンはそのうちの何曲かを出版するように勧め、ブラームス自身も一時はその気になったようなのですが、結果的には「その価値なし」」と判断して廃棄していまいました。

実に持って、勿体ない話ですが、そう思えば残された3曲の重みが分かろうというものです。

 

しかしなのです。そう言う重みが分かったとしても、実際に聞いてみればある種の物足りなさを感じてしまいます。

それは、ベートーベンの作品を引き継いで発展させたと言うよりは、ロマン派の時代に相応しい濃厚な感情が表出された作品というように聞こえます。

おそらく、そのように受け取られることをブラームスは良しとはしないでしょうが、残念ながらそのような作品として私は受け取りたいと思いますし、評価したいと思います。 

箕面(ミノヅラではありませんw)

 箕面の滝と、大阪有数の紅葉の名所として有名な箕面の歴史は古い。

箕面の歴史は、縄文時代に遡ります。今から30006000年前の人々が、生活や狩猟に使っていた土器と石器が、瀬川・新稲・稲・白島の各地で見つかっています。弥生時代になると、箕面地区からは土器と稲の穂刈りに使った石包丁や住居跡が、白島では土器、如意谷からは銅鐸が見つかっています。これによって、紀元前後から3世紀ごろの市域では米づくりが行われており、各地に人々が定住して「ムラ」も出来ていた事が知られます。

阪急箕面駅の南東に当たる池の内遺跡は、4世紀末から7世紀のムラ跡で数棟の住居跡と土器や石製の装身具など、多彩な遺跡が見つかりました。中には、堺市で作られた4世紀末の土器もある事から、他地域と交流のあった事も分かります。

また桜ヶ丘と新稲の丘陵台地には、6~7世紀の古墳数基と延喜式内社の阿比太神社が鎮座しています。古墳は、池の内遺跡を残した有力者たちの墳墓であり、神社は彼らの祖先を祀った「氏神」社でしょう。箕面市の東部にある為那都比古神社も、古代の萱野地方の開拓を行った有力者の氏神社でありましょう。
出典https://www.city.minoh.lg.jp/index.html

さて、その由緒ある「箕面」の由来を見て行きましょうか。

みのお」の地名の由来は定かではありませんが、一説には「箕面大滝」の「面」(表面の形)が穀物を入れてもみ殻や藁屑をふるい分ける農具の「」に似ていることから「箕面」という表記になったと言われています。

「みのお」という名前は古くから知られていて、平安時代の流行歌を集めた「梁塵秘抄」にも

聖(ひじり)の住所はどこどこぞ、箕面(みのう)よ勝尾(かちう)よ、播磨(はりま)なる書写(そさ)の山

と箕面寺(現・瀧安寺)や勝尾寺が詠じられています。
出典https://www.city.minoh.lg.jp/index.html

大阪府箕面市の、箕面公園にある滝。高さ33mから落下する滝で「日本の滝100選」にも選ばれている。滝の姿が農具の「箕」に似ている事からこう呼ばれていて、地名の由来にもなったそうです。

ここまでの由来は一般的に良く知られたものと言えるが、ここに興味深い「珍説」が見つかった。

≪箕面という地名は、ことによると中国の星座の中の「箕宿(きしゅく)」と「尾宿(びしゅく)」に由来しているかも知れないと云う、まことに壮大でロマンチックな仮説である。

奈良・明日香のキトラ古墳の石室天井に描かれていた事で広く知られるようになった中国の星座は、西洋と星座とはまた異なっている。太陽の通る道である黄道にある星座は、西洋では12座で十二宮と呼ばれているが、中国では28座あって二十八宿と云われる。その中に「箕宿」という星座と「尾宿」という星座が並んで存在し、その中間を天の川が流れている。この「箕宿」と「尾宿」が「箕尾」→「箕面」になったのではないか。その間を流れる天の川、これが箕面川と云う訳である。

ある時、役行者が北の方の山を仰いで山の上にかかる箕宿と尾宿を見、その間を流れる天の川を訪ねて箕面までやって来た。となると話がよく出来てくるのだが、どうもそう簡単にはゆかない。

<箕宿と云うのは、西洋の星座では「射手座」の弓矢の部分であり、尾宿というのは「さそり座」の尻尾の部分にあたる。従ってこれらの星座は南天の星座であり、南東の方角で地平線を出て南西の方角で地平線に入る。だから、箕面の山の上に懸かるという事は有り得ないのである。これは困った>

<ところで、箕宿という星座は風の神である。すなわち「風伯(ふうはく)」とされている。これに対して、雨の神「雨師(うし)」とされているのは、畢宿(ひっしゅく)である。畢宿は、牡牛座のヒアデス星団である。箕面寺(滝安寺)は水の神弁才天を祀り、請雨の効験あらたかな寺であるから、箕宿よりも畢宿の方が似つかわしい。風の神では、どうにもならぬ。この辺りで何とか理屈を付けようとしたが、これも失敗である・・・>

 ≪そこで、考えられるのが「青龍」との関連である。これもまた、キトラ古墳の壁画で知られるようになった四神(しじん)のうち、東方を護る聖獣である。中国では、東には青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武(蛇と亀)の四獣が天上に居って、それぞれの方向を守護すると考え、これを四神と云う。二十八宿の星座は7つずつに4分割されて、東西南北の四神の下に配されている。箕宿と尾宿は東方の青龍の座に配されている。

すると、龍→滝で箕面の滝につながるのではあるまいか、と云う考えである。しかしこれも、どうもしっくりしない。箕宿・尾宿は、青龍の座では北の外れである。青龍の中心は、心宿である。心宿は蠍座の赤い一等星アンタレス。アンタレスは蠍の心臓であると共に、青龍の心臓であると云われている。箕宿では、どうもスッキリしない。

ところがもう一つ、箕宿には冬至の頃に太陽が宿る星座と云う性格がある。冬至は、衰弱した太陽が復活する事を祈る日、あるいは復活する事を祝う日として洋の東西を問わず、民俗においても暦法においても重要な日である。西洋のクリスマスは、元々は冬至の祭に由来している。

中国では冬至の日に、天子は都の南郊に円壇を築いて天を祀る。北京の天壇は、その祭祀の遺跡である。しかしその事が、箕面の地名とどのようにつながるのだろうか。どう考えれば、理屈が付けられるのだろうか・・・≫

ポリネシア語による解釈
箕面山は、箕面市中西部に広がる山地の総称です。北側は北摂山地で南縁は断層崖をなし、山麓には扇状地性の平坦地が展開しています。山中を南流する箕面川の峡谷には、落差33メートルの箕面滝があり奇岩巨石が連なり、紅葉の名所となっています。昭和421967)年、明治の森箕面国定公園に指定されました。

この「みのお」は

(1)
滝の流水が箕の面に似ているから
(2)
「水尾」の意

とする説があります。

この「みのお」は、マオリ語の「ミ(ン)ゴ・アウ」、MINGO-AU(mingo=wrinkled,curled;au=firm,intense)、「密に皺がよった(山)」 の転訛(「ミ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ミノ」となり、「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/