2007/09/14

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲(第3楽章)


 

※やはりモーツァルトのカデンツァが聴きたかった。。。

 

 3度目のパリ到着後、母アンナ・マリア・モーツァルトが夫のレオポルトに充てた手紙の中に
 「ヴォルフガングは、仕事をたくさん抱えています・・・ある公爵の為に、協奏曲を2つ書かなければなりません。フルートの為と、ハープの為にです。」

 とある。

 これは結局母の勘違いで、当時22歳のモーツァルトが受けていたのは2つの楽器の為の協奏曲であった。


 依頼主の公爵というのは、ベルリンやロンドン駐在フランス大使も務めた外交官のギーヌ公アドリアン=ルイ・ド・ボニエールのことで、モーツァルトがこの貴族の知己を得たのは、前2回パリ滞在中のような積極的な支援はしてくれなかったものの、3回目の滞在中もパトロンとして動いてくれたグリム男爵の引き合 わせによるものである。


 モーツァルトは、彼の娘の家庭教師を務めており、アマチュアのフルート奏者であったギーヌ公がハープを嗜む娘と共演できるような作品を所望したことがきっかけとなり、同年の春に本作が作曲された。


 モーツァルトは、父レオポルトに宛てて


 「ド・ギーヌ公爵は、なかなか大したフルートの名手です。その令嬢に僕は作曲を教えていますが、彼女もハープをとても上手に弾きます。」


 と認めている。


 バロック期に端を発する複数の楽器を持つ協奏曲は、古典派の時代になると協奏交響曲という形態に姿を変え、モーツァルト滞在時のパリにおいてたいへん持て囃されていた形式であった。


 モーツァルトもオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲(K.Anh.9=K.297b 自筆譜消失。初演が何者かに邪魔され、ジュゼッペ・カンビーニによる妨害かとモーツァルトは考えたが、本人は彼を高く評価しており、また強く否定している)を書きあげており、それに引き続き作曲されたのが、この曲であった。


 交響曲風な要素は殆どなく、純粋に2つの楽器が主役として競い合う協奏曲の部類に属している。


 識者によって賛否が分かれるところであるが、アルフレート・アインシュタインによれば、モーツァルトはフルートが嫌いだったというし、ハープも現在のような上下の半音階移動が自由にこなせるダブル・アクションを備えていはいない、まだ不完全な楽器であった。


 熱心に意気揚々と作曲に取り掛かってみたものの、やがてその期待は裏切られてしまう。
 ギーヌ公はモーツァルトに、レッスン料の半分しか支払わず、協奏曲に対しては一銭も出さないという始末であった。


 令嬢の作曲レッスンにおいては、あまりの出来の悪さにずいぶんと手を焼かされたようで、レオポルト宛てに


 「どこまでもバカで、しかも根っからの怠け者です」


 といった愚痴を書き送っている。


 にもかかわらず、流行の2つの楽器をオーケストラの響きの中に融け込ませ、浅薄になってしまうことなく、典雅なフランス風サロン音楽に仕立て上げているのは、彼の力量を表す証左であり、さすがというほかはない

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