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概要
「泰皇から皇を残し、上古の帝位の帝と組み合わせて『皇帝』と呼ぶことにいたせ。
また、朕を始めとして以後は二世、三世と千万世に至るまでこれを無窮に伝えよ」
『うろおぼえ人間物語より』
五百年以上の長きにわたった春秋戦国時代を終わらせた、史上最初の皇帝。
秦の王が紀元前221年に戦国時代を制し諸国を統一した時の版図は、その時代の欧洲のどの王朝よりも広く、欧洲の全人口を合わせても足りぬほどの人間を「支配下」においた。これは今までの「王」とは違う存在が誕生した瞬間でもあった。
生涯
紀元前259年~紀元前210年
秦王国の第31代王にして、秦帝国の初代皇帝。在位紀元前246年~紀元前221年。
姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。
現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ)または秦始皇(チンシーフアン)と称される。
統一以前
父・荘襄王が早く死亡したため、十三歳で即位した。
この父親は長く趙国に人質に出されており、幼いころの政も辛酸をなめている。
しかし、大商人の呂不韋がスポンサーとなったことで状況が好転し、間もなく帰国して数年後に父が即位。その父も三年で死に、始皇帝が即位した。
ちなみに、ふつう王号は死後につけられるおくり名であるが、始皇帝は王としては死ななかったために、王号を持っていない。
したがって、皇帝以前の彼をあらわすには「秦王・政」というしかない。
ここでは便宜上、始皇帝で統一する。
少年時代は宰相となった呂不韋に政務を任せていたが、実は呂不韋と趙太后(始皇帝の母親)は不義密通しており、さらに彼女に新しい情婦をニセ宦官として斡旋したところ、そのニセ宦官がクーデターを起こしてしまう。
それ自体はすぐさま鎮圧されたものの、推薦した人物が謀反を起こしたことから不韋は連座で追放に処され、以後は自ら政務を取り仕切った。
その後、兵法家の尉繚子やその親友・韓非と出会い、法家思想を学ぶ。
特に韓非が自身の思想を記した『韓非子』を読んだ時、
「この人に会えるのならば死んでもいい!」
と叫ぶほどの感激を受けており、のちにかなり強引な手法で招聘したが、韓非のライバルだった李斯の工作もあって、韓非を自殺に追い込んでしまった。
しかし始皇帝は韓非子の思想自体は継承し、秦の膨張政策を加速させた。
途中、趙国の李牧や楚国の項燕(項羽の叔父)に撃退される局面はあったものの、秦軍の圧倒的軍事力と外交策術でこれらを撃破。
紀元前221年に、ついに天下を統一した。
統一後
秦の始皇帝は、自分が「三皇五帝より尊い存在である」と言う考えから「皇帝」と言う言葉を造語し、自分に対する呼び名として使わせた。
以降二千年以上の長きにわたり、中国の支配者は皇帝を名乗ることになる。
彼は紀元前221年に中国統一を成し遂げた記念として「皇帝」を宣言、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
義士として名高い荊軻を始め、後に劉邦の名参謀となる張良など、生涯多くの暗殺の危機に晒されたが、遂に誰も始皇帝を殺す事は出来なかった。
ちなみに、始皇帝によくある俗説として「不老不死を求めて長寿の薬だと信じられていた水銀(実際には人体には毒)を飲み続けた」というものがあるが、史書にそのような記述は一切ない。
というより、そもそも始皇帝は仙薬を入手していない(唐代後期の14代・憲宗、15代・穆宗、18代・武宗、19代・宣宗などが仙丹=水銀化合物を飲んで若死にしたが、その混同か)
統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。
まず第一に、法と官僚を中心とした中央集権体制を構築。
これまでの一族や配下に領地を与えて世襲統治させる封建制を終わらせ、中央から派遣する官僚が治める郡県制に転換した。
さらに、これまで各地で異なっていた漢字や貨幣、数進法の法則や度量衡などを単一のものに整備。
こうした数々の文化事業によって、一つの文化圏としての「中国」を事実上作り上げた。
始皇帝は巨大プロジェクトを実行し、初期の万里の長城や等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵および新しい宮殿・阿房宮の建設、国家単位での運河や街道などの交通規則・整備などを大規模に行った。
このために多くの囚人・受刑者が動員されており、これが彼への悪評の一つとなっている。
また焚書坑儒(後述)を実行した事でも知られる。
これら土木事業に動員されていたのは「史記」秦始皇本紀によると、犯罪を犯して逮捕された受刑者となっている。
この中には亡国の遺民が多く含まれており、始皇帝没後の反秦の大乱、その先駆けとなった陳勝・呉広は楚の遺民と伝わる。
一方で働かない・働けない人間たちに開墾を命じ、それら開墾・入植に成功した者たちには賦税や労役の免除を与えたという記録、「不直の治獄吏」すなわち権力を悪用した役人をも大量に逮捕して労役を科した記述もあり、始皇帝の立石碑文にも「黎庶に繇無し(繇=徭役、庶民に徭役は課さず)(三十二年)」とある。
焚書坑儒
始皇帝が発布した思想統制・弾圧事業と、その政権下で起きた政治事件である。
「焚書」に至る経緯は、大臣の淳于越が宴席で始皇帝政策への反対を訴え、封建制に戻すよう論じたのが発端であった。
始皇帝はそれを会議に掛けさせ、李斯が再反論・献策をしたのでそれを認可した。
内容は、「博士官が所蔵するものと、秦国の史書、医・占・農の書を除き、民が所有するものは焼き捨てる。従わない者は顔面に刺青(罪人の証)を入れ、労役に出す。政権に対する不満を論じたてるものは族滅にする」というもの。
これは、秦以外の国史、「詩経」「書経」など旧来の思想につながる人文書籍を排除し、民間における思想、特に政権に対抗するものを止めようとする目的があった。
博士官とは「古今東西の書物を集めて管理する」ものである(のちにこの所蔵文書は、項羽に焼き払われた)。
「坑儒」は「焚書」事件から一年後、始皇帝に不老不死の仙薬を作ると言って大量の予算を引き出し、できないと見ると始皇帝への誹謗を残して逃亡した方士が原因となる。
それを尋問したところ他の方士たちが互いに密告しあい、逮捕者が大量に出、抗殺される事件となった。
彼らの処刑理由は汚職と逃亡によるものであり、儒者であるが故の処刑ではないが、これを諫める長子・扶蘇の言葉から、相当数の儒者がこれに巻き込まれたとする説もある。
史記にはこの件で「儒」の文字は使われておらず、扶蘇の言は「孔子の法を誦(唱)える」とある。
このような始皇帝の政治には、法家思想、とくに『韓非子』からの影響が強く見られる。
法家思想とは、簡単に言えば『絶対権力者が、法を以って国家を統治する』という思想であり、始皇帝以前から秦は、この法家思想によって運営されていた。
ただし、この場合における「法」とは、現代におけるそれとは概念から異なる。
法家が目的とするところは効率的な政治体制による富国強兵であり、いわゆる法の下の平等や思想の自由などは、むしろ強力に制限される傾向にあった(記録に残る最初の禁書令も、始皇帝以前の秦で行われたものである)
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