2019/03/22

生い立ち ~ 始皇帝(1)


始皇帝(紀元前259218 - 紀元前210年)は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247 - 紀元前221年)、初代皇帝(在位:紀元前221 - 紀元前210年)。名は嬴政または趙政。現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称される。秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げると、歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位し「始皇帝」と名乗った。

統一後は、重臣の李斯らとともに、主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定などを行った。

万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒でも知られる。紀元前210年、旅の途中で49歳で急死するまで君臨した。

「始皇帝」の称号
周の時代及び、その後(紀元前700 - 紀元前221年)の中国独立国では、「」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った嬴政は、事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。

」は「最初(一番目)」の意味である。始皇帝の後継者は、その称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける。「皇帝」は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られた。ここには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている。

さらに、漢字「」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「」を指す形容語句としても用いられていた。元々「」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「」が用いられるようになった。始皇帝は、どの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた。

『史記』における表記
司馬遷が著した『史記』において、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記を見ることができる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にてや6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題で使われる。嬴政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を作ったため、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる。

生誕と幼少期
秦人の発祥は、甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。秦朝の「」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた。

人質の子
秦の公子であった父・「異人」は、休戦協定で人質として趙へ送られていた。ただ父・異人は公子とはいえ、秦の太子である祖父・安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父・昭襄王の次子)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って、久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性が殆どない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。

そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾 (趙姫)を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「」と諱を名付けられたこの赤子は、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた。後に始皇帝となる。

血筋に対する議論
漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際には、すでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。

始皇帝が非嫡子であるという意見は、死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた。

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して、呂不韋父親説を否定している。

『史記』の説は、異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて、一切触れられていない。『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。

『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸」(邯鄲の歌姫)と「趙豪家女」(趙の富豪の娘)の異なる説明がある。政は「大期」(10ヵ月または12ヵ月)を経過して生まれたとあり、事前に妊娠していたとすればおかしい。陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した。

死と隣り合わせの少年
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが曾祖父の昭襄王は、未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、紀元前258年には王陵、翌紀元前257年には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。

趙は残された二人を殺そうと探したが、巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。

邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。そして紀元前251年に昭襄王が没し、1年の喪を経て紀元前25011月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時、子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが、孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。
出典 Wikipedia

0 件のコメント:

コメントを投稿