2019/03/06

趙姫



中国の歴史に欠かせないのが、中国統一を果たし中国皇帝の先駆者となった始皇帝です。

始皇帝は、重臣の李斯(りし)とともに大きな政治改革を実行したことでも知られ、従来の封建制から中央集権制への移行、貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行いました。彼が建設した万里の長城は、現在でも観光名所として有名です。多くの偉業を成し遂げた始皇帝ですが、彼を産んだ母親は悪女として知られています。

今回は、始皇帝の母が悪女と呼ばれる理由や、彼を産んだ経緯などについてご紹介します。

兵馬俑
兵馬俑で有名な秦始皇帝陵の建設をしたのは始皇帝の母でした。

始皇帝の母は、趙姫(ちょうき)と呼ばれる女性です。彼女は、元々娼婦や踊り子だったといわれており、大商人である呂不韋(りょふい)の妾でした。その後、息子である政(せい=始皇帝)を産んだことで、戦国時代の秦国の王妃となります。趙姫は、元々貧しい家の出でしたが、最終的に王妃になったことを考えると、かなりの出世といえるでしょう。ちなみに趙姫は本名ではありません。文字だけ見ると高貴なお姫様のようにも思えますが、これは名前ではなく、趙という土地出身の女性であることを表しています。実際の姓や諱(いみな)は、共に不明のようです。

趙姫が始皇帝を産んだ経緯
呂不韋の妾だった趙姫ですが、一体どのような経緯で後の始皇帝となる政を産んだのでしょうか。実はそこには、呂不韋の思惑が隠されていました。

呂不韋の妾だったが
趙姫を妾にしていた呂不韋は、若い頃から各国を歩き回って商売し、大きな富を築きました。それだけではなく、彼は後に戦国時代の秦の政治家として力を発揮することになります。商人だった彼が、そこまで上りつめた裏には、大きな戦略があったのです。

呂不韋は、趙の人質になっていた秦の公子である異人(いじん)を偶然見かけ

「これは掘り出し物だから、手元に置いておかなくては」

と思い、父と話し合って彼に投資することを決めます。この異人は、秦王である昭襄王(しょうじょうおう)の太子・安国君(あんこくくん)の子供でしたが、兄弟が20人以上おり、生母・夏氏が父からの寵愛を失っていたため、王位継承の可能性が少なく死んでも構わないといった立場の人質でした。また趙での待遇は酷く、生活は監視され生活費にも困るほどだったのです。

呂不韋は彼を秦王にし、その功績で権力を握って巨利を得ようと画策しました。まずは異人の名を趙の社交界で売り、自分は安国君の寵姫・華陽夫人の元へ向かい

「異人は華陽夫人のことを実の母親のように慕っている」

と吹聴し、さらには華陽夫人の姉にも財宝を贈ります。華陽夫人は、安国君に寵愛されていたものの子供がおらず、このままでは自分の地位が危うくなるという危機感がありました。そのため異人を世子にしようとする、この話に乗ります。安国君もこれを承諾したため、異人は呂不韋を後見人とし、華陽夫人の出身・楚国にちなんで子楚(しそ)と改名したのです。

子楚に差し出された趙姫
このように複雑な関係にあった呂不韋と子楚でしたが、あるとき子楚が趙姫を気に入り、譲って欲しいと言い出します。呂不韋は乗り気ではありませんでしたが、子楚の機嫌を損ねて今までの投資が水の泡になるのは避けたいという思いから、それを承諾します。

司馬遷が記した『史記』によれば、このとき趙姫は既に呂不韋の子供を身籠っており、それを子楚の子供として産んだことになっています。この説を信じるなら、政は呂不韋の子供ということになりますが、真実かどうかは定かではありません。

悪女として知られる理由とは
呂不韋の妾から子楚の妻になった趙姫ですが、特に悪女といえる要素は感じられません。しかし、彼女がそう呼ばれるようになったキッカケは、その後にあったのです。

安国君は孝文王として即位してからわずか1年で没し、子楚が荘襄王に、子供の政が太子になりました。荘襄王と呂不韋は、周辺諸国と戦い秦を強い国に育てましたが、荘襄王は3年でこの世を去り、13歳の政が王位を継ぐことになります。しかし政があまりに若かったため、政治の実権は母の趙姫が握ることになりました。

秦では王が幼い場合、母が政治を行うのは当然という風潮があったようです。実際、始皇帝の祖母の墓は夫とは別に作られており、巨大な墓を作るほど権力があったことが分かっています。つまり、趙姫が実権を握ったのは自然の成り行きだったと考えられますが、やはり幼い子供に代わって政治を動かしたという事実は、あまり良く捉えられないのかもしれません。

そして何といっても問題なのが、呂不韋との関係です。趙姫は太后となった後も、呂不韋との関係を続けていました。この時代の女性は、他の男と通じたら重い罪に問われましたが、それは夫が生きている場合で、既に未亡人だった彼女は呂不韋と通じても問題はありませんでした。とはいえ、立場はれっきとした太后。イメージが悪いことには変わりないでしょう。そして、呂不韋もこの関係が発覚すれば身の破滅に繋がると危機感を抱いていました。

皇帝の母というと厳粛なイメージがありますが、趙姫はもともと性に奔放なところがあったようです。男を誘惑して狂わせるという部分が、悪女のイメージにつながったといえるでしょう。

趙姫との関係を危惧した呂不韋は、自分の代わりとして嫪(ろうあい)という男を後宮に送り込みます。彼は宴会の余興として、自らの性器で馬車の車輪を回すなど逞しい性器の持ち主だったため、性欲旺盛な趙姫にちょうど良かったのです。

王以外で後宮に入れるのは男性器を切除した宦官のみでしたが、呂不韋は切除を免れるよう外観を整えさせたり記録を改ざんしたりして、彼を後宮に送り込みます。これが功を奏し、趙姫は嫪を気に入って2人の息子をもうけるに至ったのです。

は趙姫の後ろ盾をもとに、呂不韋に次ぐ権力を握るようになりましたが、周囲からの評判は悪く密告によって政にこの情報が届くと、クーデターを起こします。しかし結果的には処刑され、一族や趙姫との間に出来た子供も殺されてしまいました。

数々の男性と関係を持った趙姫は幽閉されましたが、のちに始皇帝自ら母を訪ねて宮殿に呼び戻しています。その後、趙姫はその波乱万丈な人生に幕を降ろしました。この頃の始皇帝は、周辺諸国を征服して天下統一を進めていましたが、趙を滅ぼした際は趙姫を苦しめた人々を生き埋めにしたといわれています。

悪女として後世に知られるようになった趙姫ですが、それでも始皇帝にとっては唯一の母親であり、強い愛情を感じていたのかもしれません。

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