魏・楚・斉の滅亡
次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い、弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻められても3か月は耐えたが、秦王政22年(前225年)に降伏し魏も滅んだ(魏の滅亡)。
そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った(楚の滅亡)。秦王政は、若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱と、楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした。
最後に残った斉は、約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝と、その食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い、無抵抗のまま降伏し滅んだ(秦斉の戦い)。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)39歳であった。。
始皇帝王朝
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。
王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫
小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。
五徳終始
また始皇帝は、戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と、王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は、相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。史記の伝説では、秦の始祖、大費(柏翳)が成功し舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された。
政治
始皇帝は、周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。
統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて、王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招くと、強硬に主張した李斯の意見が採られた。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった。
経済その他
始皇帝と李斯は、度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため、道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は、半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で、篆書体への一本化を推進した。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい。その後、この書体を征服した全ての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。
度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され、各地に配られた。これらには、篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている。
廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安
立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
咸陽と阿房宮
始皇帝は、各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には、滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。
始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は、四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ巨大な宮殿であった。
名称「阿房」とは仮の名称である。この「阿房」は、史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言う。
出典 Wikipedia
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