若年王の誕生
荘襄王と呂不韋は、周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし前247年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり、戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した(蕞の戦い)。呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い『呂氏春秋』編纂なども行った。
呂不韋は、ひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫と、また関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅に繋がるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた。あご髭と眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移った後、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた。
このことは秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では、嫪毐が宦官ではないという告発があったと言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して、嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。または秦王政が雍に向かった隙に、嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって、一族そして太后との二人の子もろとも殺された。
事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは、翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った。
秦に対し一体、何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体、何の繋がりがあって仲父を称するのか。一族諸共、蜀に行け。
— 史記「呂不韋列伝」14
流刑の地・蜀へ行っても、やがては死を賜ると悟った呂不韋は服毒自殺した。吉川忠夫は、嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測したが、陳舜臣は青年になった政が、うとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政は、呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した。
専制
紀元前234年、桓齮に命じて趙を攻めさせた(肥下の戦い)。
李斯と韓非
秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし、的確な論をもっていた。
秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し、孝公は衛の公族だった商鞅から、恵文王は魏出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎から、それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた。秦王政は、彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた。
商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた。秦王政も、この考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は、韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)、使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非は、すでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり、死に追いやられた。
秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の
「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」
という部分と、「五蠹」節10文末の
「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は、先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」
の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。
韓・趙の滅亡
秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった。
韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)。次の標的になった趙には、幽繆王の臣・郭開への買収工作が、すでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧・司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた(趙の滅亡)。
趙王は捕らえられたが、兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れた。王は捕虜となり、国は秦に併合された。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。
暗殺未遂と燕の滅亡
燕は弱小な国であった。太子の丹は、かつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた。
『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。実際は脱走したと思われる丹は、秦に対し深い恨みを抱くようになった。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて、秦王政への謁見に臨んだ。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は
「供は天子の威光を前に、目を向けられないのです」
と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった。秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った。
宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた。二人の偽りの使者は処刑された。
秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた(燕の滅亡)。暗殺未遂の翌年には、首都・薊を落とした。荊軻の血縁を全て殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。
出典Wikipedia
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