カルタゴの繁栄
すぐれた航海術を持つカルタゴは、地中海貿易を独占し一大経済大国となった。サルデーニャ島、マルタ島を領有し、シチリアにも進出していった。
シチリアには、シラクサやメッシーナなど、多くのギリシア植民都市があった。カルタゴは、シチリアをめぐってギリシアと争う。これが3次にわたるシチリア戦争(BC480~BC280)で、ギリシア軍に苦戦しながらもシチリアの西半分を支配下におさめた。
BC265年、カルタゴとシラクサが同盟してメッシーナに侵攻した。メッシーナはローマに救援を求め、ここに3次にわたるローマとカルタゴの戦い「ポエニ戦争」が始まった。
第一次ポエニ戦争
南イタリアのギリシア植民都市を制圧してイタリア半島を統一したローマは、シチリアに目を向けていた。そこに飛び込んだメッシーナからの救援要請、ローマは即座に2万の兵をシチリアに派遣した。まず南から迫るシラクサ軍を撃破し、すぐに西に転じてカルタゴ軍を破った。傭兵主体のシラクサ軍やカルタゴ軍はやる気がなく、士気の高いローマ市民軍の敵ではなかった。
翌年、ローマ軍はシラクサの町を攻め落とした。これに危機感を強めたカルタゴは、本格的な4万の部隊をアグリジェントに投入した。BC262年、ローマ軍は直ちにアグリジェントに侵攻し、カルタゴ軍を破った。
海戦
その後もローマの攻勢は続き、内陸部のカルタゴの都市を次々と攻め落とした。しかし沿岸部の町は、カルタゴ海軍に守られて健在だった。ローマは名将スキピオの祖父を指揮官として、海軍を新設した。
未熟なローマ海軍は、がむしゃらに戦った。まっすぐ敵船にぶつかり、兵士が乗り移って得意の白兵戦に持ち込んだ。この戦法で、BC256年までの3度の海戦にローマが勝った。そしてついに北アフリカに上陸、カルタゴ本国に迫った。
危機に瀕したカルタゴはスパルタの武将を指揮官に据え、軍隊を徹底的に訓練しなおした。翌年、北アフリカでの戦いでローマは手痛い敗北を喫した。更にアフリカから撤退するローマ船団を嵐が襲い、シチリア近海で沈没、6万人が犠牲になった。
ハミルカル・バルカ
開戦から18年が過ぎた。カルタゴは本拠地パレルモも失い、島の西のトラパニとマルサラに追い込まれた。ここでカルタゴは、ハンニバルの父ハミルカル・バルカを投入する。ハミルカルは善戦するが形勢はくつがえらず、開戦から23年目のBC241年、力つき降伏した。
ローマはシチリアを属領とし、カルタゴには多額の賠償金を課した。ほどなく、サルディニア島やコルシカ島も、カルタゴから離反していった。
ハミルカルはイベリア半島に拠点を移し、ローマへのリベンジに備える。まだ9歳の息子ハンニバル(Hannibal Barca)を神殿に連れていき、生涯ローマに復讐することを誓わせた。スペイン東岸のカルタヘナは、この頃建設されたカルタゴの町、バルセロナはバルカ家の都市という意味。
ハミルカルはBC228年に戦死、女婿のハシュドゥルバルがあとを継ぐが7年後に殺され、ハンニバルがスペイン総督に就任した。
BC218年、カルタゴはローマの同盟都市サグントゥム(現サグント)を攻撃した。ただちにローマはカルタゴに宣戦布告、ハンニバル戦争と呼ばれる第二次ポエニ戦争が始まった。ハンニバルは29歳になっていた。
第二次ポエニ戦争
カルタヘナを出発したカルタゴ軍は、エブロ川を渡りピレネー山脈を越えてフランスに入った。歩兵5万、騎兵9千、象37頭の軍勢はひそかにローヌ川を渡り、極寒のアルプス山麓に分け入った。そして想像を絶する苦難の末にアルプスを越え、イタリアに姿を現した。スペインを出てから4ヶ月が過ぎ、兵力は歩兵2万と騎兵6千に減少していた。
北イタリアはガリア人の世界で、北上してくるローマと争っていた。カルタゴ軍はガリア人傭兵を雇って増強し、トリノの東に進んだ。ローマ軍はミラノ南方のティチーノ(現パヴィア)で迎え撃ったが、一方的に撃破された。
カルタゴ軍は、更に東へと進む。そして、ピアチェンツア付近のトレッビア川でローマ軍4万と対峙した。12月の早朝、カルタゴ騎兵が戦いを仕掛けた。ローマはこれに反撃、重装歩兵が激しく突進しカルタゴ軍を押し返した。これがハンニバルの作戦だった。いつの間にかローマ軍は包囲され、殲滅された。ローマ軍の戦死者は2万を超えた。
苦悩するローマ
この勝利に多くのガリア人が味方につき、カルタゴ軍は5万に膨れ上がった。ボローニャで冬営したハンニバルは、翌BC217年、フィレンツェに向けて南下した。ローマ軍は追撃を開始した。ハンニバルは、ペルージア北西のトラジメーノ湖北岸でローマ軍を待ち伏せた。
霧の深い朝、湖のほとりで野営したローマ軍は、早々に陣をたたんでハンニバルを追った。湖の北側にさしかかった時、先頭部隊が軽い攻撃を受けた。前方の敵に気をとられて進軍していくと、突然本格的な部隊が現れた。後からも敵が迫り、側面の森にも多くの敵がひそんでいた。三方を敵に囲まれ、残る一方は湖である。獲物を閉じ込めてから、カルタゴ軍は襲いかかった。ローマ軍は1万7千が戦死、6千が捕虜になった。
カルタゴ軍はローマ近くにまで迫ったが、あっさり軍を南に進めた。南イタリアのギリシア人都市をローマから離反させるためだった。しかし、カルタゴに味方する都市はなかった。
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