2019/03/14

カルタゴ(2)



カンネの会戦
 翌BC216年、ローマ軍は戦力を87,000人に増強しハンニバルを追った。ハンニバルは、ローマの食糧貯蔵庫があるカンネ(カンナエ)を攻略、そこでローマ軍を待ち受けた。両軍が布陣して2ヶ月が過ぎた。何度も小競り合いがあり、常にローマが勝った。

 82日、士気の高まったローマ軍は1万の予備兵を残して、全軍が繰り出してきた。ハンニバルも出陣した。戦いは中央の歩兵同士の衝突から始まった。ローマの重装歩兵は、カルタゴのガリア兵を圧倒した。両翼の騎兵の戦闘は、カルタゴのヌミディア騎兵(Numidia)が優勢だった。

 ローマ軍の突進にガリア兵は左右に崩れて戦線を離脱、正面に2万のカルタゴ兵が現れた。7万のローマ軍は押しに押したが、カルタゴ兵は耐えた。ローマ軍が圧倒的に優勢だった。

一方、騎兵戦ではヌミディア騎兵がローマ騎兵を追い散らしていた。しばらくすると、戦線を離脱していたガリア兵がいつの間にかローマ騎兵のいない両翼にまわりこんできた。そして、ローマ騎兵を追い払ったヌミディア騎兵がローマ軍の背後に迫り、包囲網が完成した。

 7万のローマ歩兵は、5万のカルタゴ軍に囲まれ全滅した。待機していた1万の予備軍は、出番がないまま捕虜となった。ローマがこれほどの敗北を喫したのは、この会戦が最初で最後だった。

ローマの反攻
 ローマ軍全滅の知らせに南イタリアの都市は動揺し、ハンニバルに城門を開いた。中でも重要都市カプアが離反したことは、ローマにとって大きな衝撃だった。

 翌BC215年の春、シラクサの僭主ヒエロンが90歳で亡くなり、15歳の孫が後を継いだ。これにつけ込んで、ハンニバルはシラクサをローマから離反させた。また、マケドニアのフィリップ5世と軍事同盟を結び、ローマを包囲網を完成させた。

 ローマは窮地に追い込まれた。しかし、ローマは団結し冷静に対処した。まず、カプアを2年かけて攻め落とした。ハンニバルは救援のため出兵したがローマの完璧な包囲網に阻まれ、近寄ることができなかった。

 シラクサも3年かけて落とした。シラクサの物理学者アルキメデスは、接岸しようとする軍船を起重機で持ち上げたり、凹面鏡で炎上させるなどローマ軍を大いに悩ませた。彼は、この戦闘中に戦死する。

スキピオ登場
 BC213年、ハンニバルは港町ターラントを攻め落した。これが最後の攻勢だった。援軍が来ないカルタゴ軍をローマが圧倒し始めた。まず、スペイン戦線に25歳のスキピオが派遣された。スキピオは1兵士として何度かハンニバルと戦い、そのたびに蹴散らされた。その経験から相手の戦術を学び取り、優れた武将に成長していた。

 スペインはハンニバルの弟ハスドルバルが留守を守り、ローマ軍をエブロ川の北タラゴナまで押し戻していた。BC209年、スペインに派遣されたスキピオはカルタゴの本拠地カルタヘナを急襲し、1日で攻め落とした。その後、ベクラの会戦、イリパの会戦と次々にカルタゴ軍を撃破していった。

 ハスドルバルはイベリア半島の放棄を決意、残軍を率いてイタリアへ向かった。ローマはこれを待ち受けていた。BC207年、メタウルスの戦いでカルタゴ軍は敗れ、ハスドルバルの首はハンニバルの陣営に投げ込まれた。

ザマの会戦
 BC204年、イタリアに戻ったスキピオは、シチリア経由でアフリカに上陸、カルタゴ本国を脅かした。翌年、ついにハンニバルに帰国命令が出た。イタリアに侵攻してから16年、44歳になっていた彼は、万感の思いでこの命令を受け取った。ここ数年は南イタリアに閉じ込められていたとはいえ、16年の輝かしい戦績があった。その功績を銅版に記録し、クロトーネの神殿に貼りつけた。そして、15千の兵とともにイタリアを去った。ローマは喜びに沸いた。

 BC202年、カルタゴ近郊のザマで2人の名将が激突した。かつての同盟国ヌミディアはローマ側に付き、ハンニバルの戦術を会得したスキピオが完勝、カルタゴは降伏した。

 ハンニバルは、カルタゴの復興に力を注いだ。しかし、市民の協力が得られず、6年後にシリアに亡命する。BC191年、ハンニバルはシリア軍を率いてローマと戦うが再度スキピオに敗れた。シリアはローマの手に落ちた。

 ハンニバルはシリアを脱出して、黒海沿岸のビティニアにたどり着いた。しかしローマの追及は厳しく、安息を得られないまま毒をあおって果てた。64歳だった。同じ頃、スキピオも反対派の陰謀で失脚し、ナポリ近郊に引きこもっていた。そして失意のまま、52歳でこの世を去った。

第三次ポエニ戦争   
 この敗戦で海外領土を全て失ったカルタゴは、アフリカの農業国として歩み始めた。50年賦で課せられた多額の賠償金も10数年で完済した。カルタゴの驚異的な復興にローマは脅威を覚え、カルタゴを破壊すべきという意見が大勢を占めた。

 カルタゴでは、隣国ヌミディアとの国境紛争が絶えなかった。そして、ついに軍事衝突に発展した。これが他国との交戦を禁じた条約違反となり、ローマはカルタゴの釈明を聞き入れず襲いかかってきた。

 勝負は最初から決まっていた。それでもカルタゴは鉄壁の城壁に守られ、3年間抵抗した。BC146年、ついに城壁は破られ1週間にわたる市街戦の末、町は煙と炎に包まれた。その灰は1メートルに達したという。石の建造物はことごとく粉砕され、廃墟には植物が育たないように塩がまかれた。

 わずかに生き残った住民たちは、殺されるか奴隷にされた。

カルタゴのその後
 カルタゴが廃墟になってから50年が過ぎ、カエサルはカルタゴの再建を指示した。その事業はカエサルの死後もアウグストゥスに引き継がれ、2世紀頃にはアフリカの大都市になった。五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝の頃にはカルタゴに大浴場が作られ、現在も遺跡として残っている。

 ローマ帝国が衰退した439年には、ガイセリックの率いるゲルマン人が侵入し、カルタゴを首都としてバンダル王国を築いた。しかし、533年には東ローマ帝国のユスチニアヌス帝がバンダル王国を滅ぼし、再びローマの支配下に入った。

 7世紀になるとイスラム教徒が侵入し、カルタゴの町は衰退していった。

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