祖龍の死
不吉な暗示
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された上、隕石は焼き砕かれた。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた。
また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいと呟いた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため、長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため、3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した。
最後の巡遊
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊は、東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた。
ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県)にて崩御。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する、水銀入りの薬を服用していたという。
隠された死
始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ、秘したまま一行は咸陽へ向かった。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった。死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた。
二世皇帝
始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ、趙高は自らへの権力集中に使った。そして李斯さえ陥れて処刑させた。
しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には、反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた。
人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用されたが、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った。
秦王政の風貌を、鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなど殆どなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下は全て秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる。
将軍・王翦は、強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。この時、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った。
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげれば、どのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦の殆どと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて、死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。
方士の盧生と侯生が逃亡する前に、始皇帝を評した言が残っている。
始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断は全て始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた。
后妃と子女
始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御した時に、後宮で子のないものが全て殉死させられ、その数が甚だ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。
子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は、以下のものがある。
扶蘇(長子)
公子高 - 始皇帝に殉死した。
将閭 - 二世皇帝の時に死刑になった。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
胡亥(末子)
孫に子嬰があったが、父が誰かは記載がない。
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
0 件のコメント:
コメントを投稿