2019/03/26

焚書坑儒 ~ 始皇帝(5)


逸話
始皇帝の巡遊には、いくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある。これは昭王の時代に、周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、叶わなかった。この件について、北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている。

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に、海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が、会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという。

暗殺未遂
始皇帝は、秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた。

高漸離の暗殺未遂
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は、筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが、荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼を潰されることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかし、それは空振りに終わり、高漸離は処刑された。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした。

張良の暗殺未遂
2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった。この事件の後、大規模な捜査が行われたが、張良と勇士は逃げ延びた。

咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり、捜査が行われた。

「真人」の希求
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には

「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」

と書かれている。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が、彼らを遥かに凌駕すると述べている。逐電した徐巿に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に盧生は様々な影響を与えた。

『録図書』と胡の討伐
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は、北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し44の県を新設した。さらに現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した。

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人らを中心に編成された軍団を派遣し、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた。

焚書
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝は、これを群臣の諮問にかけたが、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した。

その内容は、占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き厳しく罰せられた。

始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には

「優れた王は不変の手法ではなく、時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」

と論じられている。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる。

すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される。しかし始皇帝は、淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には

「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」

とある。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った。

坑儒
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在を元にする超人を指した。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。

ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て、始皇帝が不快がった。後日見ると、丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた。

しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方、始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って、監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。

『史記』には「」とは一字も述べられておらず「諸生」と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇の言「諸生皆誦法孔子」から、儒家の比率は高かったものと推定される。

諫言を不快に思った始皇帝は、扶蘇に北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し、抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていたが、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろ、この処置は秦にとって不幸なものとなった。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという、究極の試験であった可能性を示唆する。
出典 Wikipedia

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