秦(拼音: Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は嬴(えい)、氏は趙。統一時の首都は咸陽。
周代
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。伝説上では、嬴姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は、魯に居住していたとされる。
紀元前822年に荘公が西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。
春秋時代の諸国
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、秦の創始者となる襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。
代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には、首都を雍城(現在の陝西省鳳翔県南東)に置いた。
9代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後、恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになった(殽の戦い、彭衙の戦い)。
紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。
戦国時代
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い)。紀元前383年、献公は櫟陽(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に涇陽(現在の陝西省涇陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。
その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い)、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。
さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達を、それぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命、さらに韓との戦いで多くの兵を失った上に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。
紀元前298年、斉の宰相・孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三国聯軍攻秦の戦い)。秦が函谷関に追いつめられると、趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。
紀元前288年には田斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。
恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが、有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は、范雎を宰相とした。
紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。翌紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い)。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った。
これと時を同じくして、敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。やがて荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に子を儲けた。それが政である。
紀元前255年、完全に周を滅ぼしてその領地を接収したものの、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。
出典 Wikipedia
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