
2006/04/29
GWスタート

2006/04/28
根津神社(2006のGW)(1)
根津神社は、東京都文京区根津にある神社。「根津権現」とも呼ばれている。
日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一つに数えられている。境内はつつじの名所として知られ、近隣には森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これら文豪に因んだ旧跡も残されている。
社殿は1705年の創建で、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉による普請とされ、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作ともされている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。近代文学の諸作品にも描かれて、さらに知られるようになった。
付属建物 : 乙女稲荷、駒込稲荷、楼門
1900年ほど前に、日本武尊が千駄木に創祀したと言われている。文明年間には、太田道灌により社殿が創られたが、江戸時代になり、現在地に移転。現存する社殿も江戸時代のものである。
「根津権現」の称は、明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では使う人もいる。単に「権現様」とも称される。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。東京大学の移転にともなって門前の根津遊郭は廃されて江東区の州崎遊郭へと移転させられた。
文学
森鴎外『青年』』
「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。」
森鴎外『細木香以』
「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る
岨道に似た 小径がある。これを 藪下 の道と云う。」
高村光雲『幕末維新懐古談』
「従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方(どっち)かに方附けなければならないことになったのである。」
岡本綺堂『半七捕物帳(柳原堤の女)』
「かれは強情にかんがえた末に、同町内の和泉という建具屋の若い職人を誘い出すことにした。職人は茂八といって、ことしの夏は根津神社の境内まで素人相撲をとりに行った男である。かれは喜平の相談をうけて、一も二もなく承知した。」
夏目漱石『道草』
「その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。」
「こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。」
尾崎放哉『入庵雑記』
「句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。」
寺田寅彦『柿の種』
「根津権現の境内のある旗亭で大学生が数人会していた。夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。「ふくろうが鳴くね」
と一人が言った。」
岡本綺堂『深見夫人の死』 ※下記引用以外にも多数の記述あり。
「その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩(おお)うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。」
「わたしはその賑わいを後ろにして池(いけ)の端(はた)から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂(どうざか)行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。」
佐々木味津三『旗本退屈男(第三話)後の旗本退屈男』
「しかも、その六本の白刄を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく逐電した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた理由も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。」
宮本百合子『田端の汽車そのほか』
「森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。」
林不忘『丹下左膳(乾雲坤竜の巻)』
「江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎(おのづかてっさい)、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。」
三遊亭圓朝(鈴木行三校訂・編纂)『敵討札所の霊験』
「ちょうど根津権現へ参詣して、惣門内を抜けて参りましたが、只今でも全盛でございますが、昔から彼の廓は度々たびたび潰れましては又再願をして又立ったと申しますが、其の頃贅沢な女郎がございまして」
夢野久作『東京人の堕落時代』
「その次は井の頭で、これはどちらかと云えば高級なのが多いらしい。但、夜は高級か低級か保証の限りでない。根津権現はその又次という順序である。その他大小の公園、神社、仏閣、活動館、芝居小屋、カフェー、飲食店なぞが、色魔式の活躍場所である事は云う迄もない。」
武田泰淳『目まいのする散歩』
「肴町から電車通を横断して、左手に大観音(同じ宗派のその寺には、よく父親の命令でお使いに行った)を見て、根津権現の坂道にかかる。下宿屋の多い急な坂道を下りきって、上野山へと裏側から上って行く。そのあたりには、画学生の匂いがあり、やがて、美術学校や、美術館、博物館の建つ、上野山の西洋風のひろがりの中へ入る。」
2006/04/24
シューマン ピアノ三重奏曲第1番(第4楽章)
「ピアノ三重奏曲」といっても、ピアノ3台で演奏するわけではない。基本的にはピアノ、ヴァイオリン、チェロの構成。通常「x重奏曲」というのは弦楽器のみの編成を指すため、ピアノが加わった場合には「ピアノ+x重奏」の意味で、このような呼称となっている。
第4楽章:熱情をもって (Mit
Feuer)
哀愁漂う前楽章から一転し、祝祭的な明るく弾む第1主題で開始する。第2主題は、一転して哀愁を帯びた旋律。次々と魅惑的な楽句が現れ、第1主題も現れて祝祭的な気分を盛り上げる中で、途中何度か顔を出す第2主題の悲哀が、見事なコントラストを描き、最後は白熱的なコーダて曲を閉じる。
すでに精神病の気配が濃厚になりつつある、晩年の入り口にあたる時期の作品であり、全曲を覆う感情は暗くしかし情熱的だ。
2006/04/23
シューマン ピアノ三重奏曲第1番(第3楽章)
第3楽章:ゆっくりと、心からの感情をもって (Langsam, mit inniger Empfindung)
失われてしまった幸福を追憶するような抒情的で美しい音楽。深い哀愁と、内面性が胸を打つ。
ピアノ三重奏というのは室内楽の中でもかなり特殊で、難しいジャンルと言われ作品も少ないが、そんな難しいジャンルに敢えてチャレンジしただけあって、現在まで残っているのは、いずれも名曲揃いである。その難しいピアノ三重奏曲を3曲も残したのが、室内楽の得意なシューマンであった。
2006/04/22
シューマン ピアノ三重奏曲第1番(第2楽章)
第2楽章 生き生きと、しかし速すぎずに
(Lebhaft, doch nicht zu rasch)
シューマンらしい付点音符の上昇音型から成る躍動的なスケルツォ。トリオは一転して、雲の上を歩くような浮遊感のある音楽。シューマンは、室内楽曲でも印象的な作品を残した。弦楽四重奏曲も作曲したが、後のブラームスのように、どちらかといえばピアノが入った編成でロマン的な香気の高い作品において、その本領を発揮した。
特に、ピアノを協奏的に扱った『ピアノ五重奏曲』は名作として知られる。また『ピアノ三重奏曲』や『ヴァイオリン・ソナタ』は、後期シューマンの充実した内容を示した作品である。
管楽器や弦楽器のための性格的な小品が数多くあるのも特徴的で、それぞれの楽器の奏者にとっての貴重なレパートリーとなっている。生来の躁鬱の気質が嵩じて、いよいよ正気と狂気の狭間を行き来し始めたころの作品だけに、そこはかとない不気味さも漂う。
国営昭和記念公園
たくさんの花を観るにはどこへ行けばいいかと、ネットで検索していて見つけたのが、国営昭和記念公園(こくえいしょうわきねんこうえん、Showa Kinen Park , Showa Commemorative National Government Park)は、東京都立川市と昭島市に跨る日本の国営公園だ。
なにしろ敷地の広さにビックリしたが、そのはずで「戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地のうち、180haを記念公園とした」ということらしい。
地元愛知県にいた時の「大きい公園」と言えば、名古屋の東山動植物公園や鶴舞公園などが思い浮かぶが、大きさの規模感が違い過ぎて、全部見るのは大変な広さである。
あまりに広く、園内をすべて隈なく見て回るには1日かかりそうなだけに、レンタサイクルやパークトレインも用意されているが、花の咲いている場所が1か所に固まっておらず、あちこちに点在しているだけに、この日は徒歩決行。
2006/04/21
シューマン ピアノ三重奏曲第1番(第1楽章)
シューマンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調は、1847年6月に妻クララの誕生日を祝って書かれた。ロマンティズムに満ちた作品で、確固とした構成力と緻密な展開法をもった感情の動きを表現している。
第1楽章:精力と情熱をもって (Mit
Energie und Leidenschaft)
独り言をつぶやいているようなピアノ伴奏に乗った物憂い弦楽の第1主題で始まる。 続いて情熱的な付点音符の楽句が現れ一気に音楽が盛り上がって行き、優美な長調の第2主題が現れる。展開部の途中で、突如として天界の音楽のような美しい旋律が、まずピアノで現れ弦に引き継がれる。再現部を経て、天界の音楽が追憶の形でわずかに顔を覗かせたのち、最後は主和音を引き延ばしながら謎めいた終わり方で結ばれる。
2006/04/19
仁和寺の御室桜(2006京都花見)(6)
京都の桜は3月中旬から下旬にかけて咲く枝垂桜を皮切りに、3月末から4月初めにソメイヨシノ、さらに4月中旬に平安神宮などで有名な八重枝垂桜と続く。
通常は満開のソメイヨシノを目指して行くことが多いから、運良く枝垂桜がまだ残っていたり、八重枝垂れが咲き始めていれば、コラボが楽しめるわけだ。
そんな中、「京都で最も遅い桜」と言われる「御室桜」は4月下旬に咲く。古くから和歌などにも詠まれている御室桜だけに、是非一度は観たいと思いつつも、なにしろこの桜を拝めるのは御室仁和寺のみ。当然、他の桜とは時期がずれるから、これを見るためには他のソメイヨシノや枝垂桜は全て諦めないといけないだけに、これまでなかなか行くことはできなかったが、この年は実に幸運なことに早く咲いたお陰で他の八重枝垂れと同時に、満開の御室桜に対面することができたのである。
https://ninnaji.jp/
《毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。
また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。
「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。
そして近代大正13年に国の名勝に指定されました。
御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜です。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。
ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。
あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです》
「ああ、観に来てよかった」
と思えるような御室桜の美しさ。重厚な五重塔をバックに、同じく満開のミツバツツジとの共演も見事だった。
2006/04/18
妙心寺退蔵院(2006京都花見)(5)
退蔵院は、京都市右京区花園にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭である。初期水墨画の代表作である国宝・瓢鮎図(ひょうねんず)を所蔵することで知られる。
応永11年(1404年)に越前の豪族・波多野重通(はたのしげみち)が妙心寺第三世・無因宗因(むいんそういん)を開山として千本通松原に創建し、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)により妙心寺山内に移される。一時期衰退するが、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉(きねんぜんゆ)により中興される。
元信の庭
狩野元信の作と伝わる枯山水の優美な庭園で、枯滝・蓬莱山・亀島と石橋など多数の庭石が豪快に組まれている。
余香苑(よこうえん)
昭和38年(1963年)から3年の月日を費やして造園家の中根金作(なかねきんさく)が作庭した昭和を代表する名園で、大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち,深山の大滝を見るような風情がある。
紙本墨画淡彩瓢鮎図
室町水墨画の先駆者・如拙の作。如拙筆の確証がある数少ない作品の一つで、日本の初期水墨画の代表作の一つである。画面上部の序文により、室町幕府4代将軍足利義持の命で制作されたことがわかる。
つるつるの瓢箪でぬるぬるしたなまず(「鮎」は「なまず」の古字)を捕まえるにはどうすればよいかという、およそ不可能な問いかけを図示したものであり、禅の公案を絵画化したものである。現状、紙面の下半に絵があり、上半部には序文に続けて30名の禅僧による賛が書かれているが、当初は座屏(ついたて)の表裏にそれぞれ絵と賛を貼ったものであった。
原品は京都国立博物館に寄託され、寺で見られるのは模写である。
名勝及び史跡
退蔵院庭園 (通称元信乃庭)
方丈の南と西に面して作庭されている。南面の庭は一面に苔が張りつめた平坦地に赤松を植栽されたのみで、禅院の方丈前庭に多く見られる形態である。西面の庭は、枯山水様式で絵画的な構築の鑑賞本位の庭園である。池の中央部に中島を配した亀島を、西側に三尊石、南西部に蓬莱島、手前に鶴島、北西部築山の奥には立石による段落ちの枯れ滝を組み、栗石を敷いて渓流を表現している。中島の岬には二ヶ所の石橋が渡され、石組みの表現は豪快華麗のなかに閑静な趣がある。室町時代の画聖狩野元信の作と伝えられている(退蔵院前の高札より)
昭和6年、文部省の史跡並名勝の庭園に指定を受ける。退蔵院は1404 (応永11)年、一膳の豪族波多野出雲守が妙心寺第三世無因禅師を開山として創建された。
2006/04/17
妙心寺塔頭大法院(2006京都花見)(4)
臨済宗妙心寺派大本山妙心寺塔頭の一つで、境内西に位置しています。真田幸村の兄で松代藩主であった真田信之の菩提寺として創建されました。
当初は、妙心寺四派(龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派)のうち東海派に属しましたが、後に龍泉派となります。寺名は信之の法名「大法院殿徹岩一明大居士」に因みます。
美しい露地庭園
双ヶ岡を借景とした露地庭園が美しいことでも有名です。
露地とは、茶室に付随する庭園のこと。仏教でいうところの「清浄世界」を表しています。美だけでなく実用も兼ね備えた庭園です。
通常非公開ですが、春の新緑と秋の紅葉の時期のみ特別公開されます。
山内きっての紅葉の名所でもあり、書院から美しい露地庭園を眺めながら、抹茶の接待も受けることができます。
叭叭鳥図(ははちょうず)
「叭叭鳥(ははちょう)」とは、中国などに分布するムクドリの一種。モズくらいの大きさで、胸のあたりに白い斑点がある全身黒色の鳥です。
客殿には、江戸時代中期の絵師・土方稲領(ひじかた・とうれい)が、約100羽の黒い鳥が自由に飛び交う姿を描いた「叭叭鳥図」を描いたふすま8面があります。特に生き物の描写が得意な土方が、墨一色で描いた作品です。
露地(ろじ)とは茶庭(ちゃてい、ちゃにわ)とも呼ばれる茶室に付随する庭園である。
概要
露地は、本来は「路地」と表記されたが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいて、「露地」の名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。以後、禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。
発生と発展
小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、「路地」が別に作られるようになった。『山上宗二記』には、堺の市中にあった武野紹鴎の邸宅の四畳半の茶室の図が掲載されており、図によればこの茶室が「脇ノ坪ノ内」という専用の通路と「面(おもて)ノ坪ノ内」という専用の庭をもっていたことがわかる。同じころ、奈良の塗師松屋松栄が設けた茶室の図には飛び石の記載があり、また待合の原型と思われる「シヨウギ(床几)」の書き入れもある(「松屋茶湯秘抄」)。
千利休の時代には更に茶室の建築が盛んとなったが、当時の数寄者達はこぞって建築の創意工夫をしていた時期であり、いわゆる利休風の茶室もこうした状況で熟成された。千利休は晩年にいたって草庵風の茶を完成させ、田園的・山間的情趣を表現の主題とし、茶の室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしている。
腰掛待合(相楽園茶室、神戸市)
なお躙口(にじりぐち)の発生に関しては資料が不足しており、流布している利休の創作という主張も確たる根拠があるわけではない。但し、この躙り口によって、それまで中立ちに際しての待合に用いられていた縁側が取り除かれ、腰掛待合が別に設けられるようになった。また手水鉢に代わるつくばい(蹲踞)も、この時期に完成したものと考えられる。
露地には樹木等は里にある木も植えず人工を避け、できるだけ自然に山の趣を出すため、庭の骨組みをつくるのは飛石と手水鉢である。後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになるほか、庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれ、また廃絶や改修で不要となる橋脚や墓石などが茶人に見立てられ、庭の重要な景として導入されていく。こうした茶室の構造は敷地の広い寺院や武家屋敷にも取り入れられるようになり、中潜りや腰掛待合とつくばいを備えた現在の茶席に見るような様式化した茶庭が成立する。
こうして町衆の人々に育まれた茶の湯や茶庭はやがて、利休の弟子で武家茶道を発達させた古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化している。
露地は広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなり、途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになる。平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなっていく。ここには寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があったが、こうした庭園の例としては桂離宮の庭園が現存する。
織部や遠州の茶や庭園は利休のそれに比べると作意が強いといわれ、利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し、織部の鑑賞を重視した茶庭には、作意が表面に押し出され、飛石や畳石を打つときは大ぶりなもの、自然にあまり見られない異風なものを探し求めたとされる。それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを織部は、切石のしかも大きいものを好んで用いているほか、自身が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は彼の作風がよく現れ、露地にあっても作意の横溢したこの「織部灯篭」をつくばいの鉢明かりとして据えるなど、興趣をこらしている。
なおこの織部灯篭は、その竿部分にマリア像らしき像を掘り込んでいることから別名「キリシタン灯篭」ともいい、織部がキリシタンであったとの憶測も呼んでいるが、像がマリアであることも織部がキリシタンであったことも、ともに確証はない。
織部の弟子である小堀遠州は作庭の名人として知られるが、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止し、以後の茶道界の大部分で慣習となっている。
2006/04/16
琵琶湖が生んだ近江
(1)旧国名の一。滋賀県に相当。江州(ごうしゆう)
(2)淡水湖。特に、琵琶湖』(goo国語辞典「大辞林 第二版」より)
・地名辞典の説明1~尾張国西春日井郡琵琶島町
・地名辞典の説明2~京都府城陽市枇杷庄
ポリネシア語による解釈