諸説がありますが、この作品はピアノソナタとして着想されたと言われています。それが2台のピアノのための作品に変容し、やがてはその枠にも収まりきらずに、ブラームスはこれを素材として交響曲に仕立て上げようとします。しかし、その試みは挫折をし、結局はピアノ協奏曲という形式におさまったというのです。
実際、第1楽章などではピアノがオケと絡み合うような部分が少ないので、ピアノ伴奏付きの管弦楽曲という雰囲気です。これは、協奏曲と言えば巨匠の名人芸を見せるものと相場が決まっていただけに、当時の人にとっては違和感があったようです。そして形式的には古典的なたたずまいを持っていたので、新しい音楽を求める進歩的な人々からもそっぽを向かれました。
言ってみれば流行からも見放され、新しい物好きからも相手にされずで、初演に続くライプティッヒでの演奏会では至って評判が悪かったようです。より正確に言えば、最悪と言って良い状態だったそうです。伝えられる話によると、演奏終了後に拍手を送った聴衆はわずか3人だったそうで、その拍手も周囲の制止でかき消されたと言うことですから、ブルックナーの3番以上の悲惨な演奏会だったようです。おまけに、その演奏会のピアニストはブラームス自身だったのですから、そのショックたるや大変なものだったようです。
恩人シューマンは最早、生ける屍同然となってしまった。ブラームスがクララをものにするチャンスはあったが、シャイな性格のブラームスはクララに激しい恋心を抱きながらも、遂にプロポーズできないまま30年以上に渡り、プラトニックな愛を貫く事になる。勿論、煮え切らない性格もあるが、やはりそれ以上に義理堅いブラームスにとって「恩人」シューマンへの遠慮が、この恋の障害になっていたに違いない。
ところが、ブラームスとクララの仲が親密になるにつれ、二人は世間の中傷の的になってしまう。
「恩人の妻を寝取ろうとする不遜なヤツ」というわけだろう。
クララは日記のなかで、自らの思いを子供たちに向かって訴えた。
「子供たちよ。おまえたちの父はブラームスを愛し、尊敬していました。ブラームスは、悲しみを共に感じてくれる親友として私たちの前に現れ、私の心を力の限り励ましてくれたのです。私は彼の精神の新鮮さ、驚くべき才能と高潔な魂を愛しています。ブラームスとの愛情は、二つの魂の最も美しい調和なのです。愛する子供たちよ。この母の言葉を信じ、彼の友情を感謝の心で受け止めて欲しいのです。人々は、私たちの愛情を非難したり話題にしたりしていますが、そんな嫉妬心に決して耳を傾けたりしてはなりません。彼らには、私たちを理解する心がないのですから」
打ちひしがれたブラームスは、その後故郷のハンブルクに引きこもってしまったのですから、そのショックの大きさがうかがえます。しかし、初演に続くハンブルクでの演奏会ではそれなりの好評を博し、その後は演奏会を重ねるにつれて評価を高めていくことになりました。
因縁のライプティッヒでも、14年後に絶賛の拍手で迎えられることになった時のブラームスの胸中は、いかばかりだったでしょう。現在ではその壮大な古典主義的な構想や、見栄えのするピアノの超絶技巧、初期作品ならではの情熱的で気魄に富んだ表現などから、ブラームスの初期の代表作として認知されている。
2年後、ブラームスは突然、デュッセルドルフを離れた。クララの娘・オイゲニー・シューマンは後年、次のように書き記している。
「ブラームスは無情にも、いきなり出ていきました。やり遂げなくてはならない「天職」と、私の母に対する「愛情への献身」、これらの両立は到底不可能であると、彼は悟ったのでしょう。が、私たちの元を離れる時、彼は自分自身と激しく闘い、自責の念にかられたに違いありません」
ブラームスは、クララへの恋心を断ち切ることで新しい人生を踏み出した。彼のクララに対する激しい熱情は、次第に信頼と誠実さを含んだ暖かい友情へと変化してゆく。 彼は厳粛な独身生活を送りながら、独自のやり方でクララを愛しつづけ、彼女との深い友情を育んでいった(その後も経済的な支援は、ずっと続けていたといわれる)
クララは、書き残している。
「子供たちよ。おまえたちの父の声が聞こえてきます。ロベルトは、私に「子供たちのために生きよ!」と語り、力づけてくれました。私は彼の意志を継ぎおまえたちを愛し、守るためにこれからも生き抜いてゆくでしょう」
時が流れた。ブラームスは栄光の極みに達すると同時に、孤独の頂点も極めていた。 彼の生涯は、芸術の高みに登りつめることにあった。そして40年にわたるクララとの精神的な結びつきが、消えることのない一つの愛情として彼の生涯を貫いていていた。
そして、1896年。ウィーンで生活していたブラームスのもとに、一通の電報が届いた。
「5月20日、母は静かに永眠いたしました」
ブラームスは、クララの危篤の報を受け取り汽車に飛び乗ったが、慌てて各駅停車に乗ってしまったため間に合わず、葬儀に立ち会うことが出来なかった。ボンにある、夫ロベルト・シューマンの墓へ埋葬される直前にやっと間に合い、閉じられた棺を垣間見ただけであったという。翌1897年、生涯独身を貫いた大作曲家ブラームスは、あたかもクララの後を追うようかのように病没した。
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