2006/04/28

根津神社(2006のGW)(1)

根津神社は、東京都文京区根津にある神社。「根津権現」とも呼ばれている。

 

日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一つに数えられている。境内はつつじの名所として知られ、近隣には森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これら文豪に因んだ旧跡も残されている。


 


社殿は1705年の創建で、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉による普請とされ、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作ともされている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。近代文学の諸作品にも描かれて、さらに知られるようになった。

 

付属建物 : 乙女稲荷、駒込稲荷、楼門

1900年ほど前に、日本武尊が千駄木に創祀したと言われている。文明年間には、太田道灌により社殿が創られたが、江戸時代になり、現在地に移転。現存する社殿も江戸時代のものである。

 

「根津権現」の称は、明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では使う人もいる。単に「権現様」とも称される。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。東京大学の移転にともなって門前の根津遊郭は廃されて江東区の州崎遊郭へと移転させられた。

 

文学

森鴎外『青年』』

「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。」

 

森鴎外『細木香以』

「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る 岨道に似た 小径がある。これを 藪下 の道と云う。」

 

高村光雲『幕末維新懐古談』

「従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方(どっち)かに方附けなければならないことになったのである。」

 

岡本綺堂『半七捕物帳(柳原堤の女)』

「かれは強情にかんがえた末に、同町内の和泉という建具屋の若い職人を誘い出すことにした。職人は茂八といって、ことしの夏は根津神社の境内まで素人相撲をとりに行った男である。かれは喜平の相談をうけて、一も二もなく承知した。」

 

夏目漱石『道草』

「その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。」

「こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。」

 

尾崎放哉『入庵雑記』

「句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。」

 

寺田寅彦『柿の種』

「根津権現の境内のある旗亭で大学生が数人会していた。夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。「ふくろうが鳴くね」 と一人が言った。」

 

岡本綺堂『深見夫人の死』 ※下記引用以外にも多数の記述あり。

「その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩(おお)うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。」

 

「わたしはその賑わいを後ろにして池(いけ)の端(はた)から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂(どうざか)行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。」

 

佐々木味津三『旗本退屈男(第三話)後の旗本退屈男』

「しかも、その六本の白刄を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく逐電した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた理由も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。」

 

宮本百合子『田端の汽車そのほか』

「森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。」

 

林不忘『丹下左膳(乾雲坤竜の巻)』

「江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎(おのづかてっさい)、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。」

 

三遊亭圓朝(鈴木行三校訂・編纂)『敵討札所の霊験』

「ちょうど根津権現へ参詣して、惣門内を抜けて参りましたが、只今でも全盛でございますが、昔から彼の廓は度々たびたび潰れましては又再願をして又立ったと申しますが、其の頃贅沢な女郎がございまして」

 

夢野久作『東京人の堕落時代』

「その次は井の頭で、これはどちらかと云えば高級なのが多いらしい。但、夜は高級か低級か保証の限りでない。根津権現はその又次という順序である。その他大小の公園、神社、仏閣、活動館、芝居小屋、カフェー、飲食店なぞが、色魔式の活躍場所である事は云う迄もない。」

 

武田泰淳『目まいのする散歩』

「肴町から電車通を横断して、左手に大観音(同じ宗派のその寺には、よく父親の命令でお使いに行った)を見て、根津権現の坂道にかかる。下宿屋の多い急な坂道を下りきって、上野山へと裏側から上って行く。そのあたりには、画学生の匂いがあり、やがて、美術学校や、美術館、博物館の建つ、上野山の西洋風のひろがりの中へ入る。」

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