2006/04/13

ブラームス ピアノ協奏曲第1番(第2楽章)

 



20代前半に書いたとは思えない滋味溢れる第2楽章。

 

シューマンの妻クララの日記より

《ある日の正午頃、呼び鈴が鳴った。長女のマリーが扉を開けた。金髪で、髭の無い青年が立っていた。

 

「まるで太陽の様に美しい青年」とマリーは言っている。

青年は、繊細な顔立ちをしていた。彼はクララとロベルトに会いたいと弱々しい、いかにも恐れをなしているような声で言った。

 

マリーは

「両親は今留守なので、もし会いたいなら明日の11時ごろ散歩の前に、もう一度来てもらわねばならない」

と答えた。

 

翌日、青年は11時ごろにやって来た。ロベルト(作曲家のシューマン)が扉を開けた。自分が書いた曲(大抵は手書きの原稿)を脇に携えて「巨匠」に会いに来る音楽家がまた一人来た、というわけである。この青年は、ヨアヒムからの紹介状を携えていた。

 

この青年は、ボンではヴァレジフスキーのところにいて、ケルンではヒラーと知り合いになったのであった。この時点では、まだ「巨匠を頼って日々沢山訪れる、数多い売り込みの一人」に過ぎなかった。

 

「自分の名前は、ヨハネス・ブラームス。ハンブルグの出身で20歳」とだけ言った。

 

まるで少年の様だった。ロベルト(当時43歳)と同じぐらい、無口だった。意思を通わせる一番良い方法は、ピアノに向かい自分の書いた曲を弾くことである。彼は、弾き始めた。

 

ハ長調ソナタの第1楽章の数小節を弾いたところで、もう止めなければならなかった。激しく心を揺さぶられ、一種溢れ出る喜びに捕らわれてロベルトが立ち上がったからだった。

 

「妻にも聴かせたい。ちょっと待ってくれ、妻を呼んでくるから」

とロベルトは言って、走って部屋を出て行った。

 

「クララ! クララ!

これまで聴いたことが無い音楽を聴きにおいで!」

と、ロベルトは叫んだ。

 

クララが来た。ハンブルグの青年は、再び弾き始めた。現在のドイツで、最も優れたヴィルトゥオーソの前で、そしてその音楽に激しく心を揺さぶられていたシューマンの前で、青年は自分の最初の作品を弾いたのである。その青年はシューマンの音楽の中に、彼自身の神話(ホフマンやジャン・パウル)の響きを聴いていたのであった。

 

第一楽章、第二楽章、そして第三楽章と弾き進められて行く。シューマン夫妻は喜びに弾けんばかりになり、感動し、驚いた。

 

この日は、正午の散歩は無かった。ヨハネス・ブラームスの演奏だけがあった。彼はそのまま残って、昼食をとった。

 

午後、彼はまた弾いた。クララも弾いた。

 

当日のクララ(当時34歳)の日記。

《「今月は素晴らしい人物、ハンブルグ出身の作曲家ブラームス(20歳)と出会う幸運を私たちに齎した。彼もまた、神から直に使わされた天才のうちの一人なのだ。彼は、自作のソナタやスケルッツォを弾いてくれた。それらは総て豊かな想像力、感性の深さ、形式の統御を示している。ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするものは何も無いとロベルトは言っている」

と書かれている。

 

この時点まで、売れないピアニストだったブラームスは、シューマン夫妻から激賞された。元来、気の小さく不器用なブラームスだから、あまりに夫婦が褒めちぎるので、どのように対応したらよいかわからず大いに戸惑ったらしい。

 

シューマンは「新しい道」と題する評論を「新音楽時報」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。実はこの時、ブラームスはシューマンの妻クララに強烈な一目惚れをしたのだ。

 

ブラームスは、14歳年上のシューマンの妻クララを知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。

 

運命の出会いの翌年、躁鬱病だったシューマンが散歩中のライン川に投身自殺を図り、一命は取り留めたものの廃人と化してしまう。この後、精神的な面ばかりでなく、経済的にも苦境に陥った妻クララを支え続けたのがブラームスである。ブラームスの支えは、自分を世に送り出してくれた「恩人」であるシューマンへの恩義だけではなく、クララへの密かな愛情があった。

 

1855年ごろのクララへの手紙の中で、ブラームスが彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。極度に引っ込み思案な性質のブラームスは、遂にその後40年間クララに自分の思いを伝える事が出来ないままに終わった。また、クララ以外のある女性とも婚約しながら「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしたこともあり、63年のその生涯を独身のままで通したブラームスは「音楽と結婚した」  というのが口癖だったといわれる。

 

2楽章にラテン語の祈祷文の一節『ベネディクトゥス』が引用されており、これはシューマンの死後の平安を祈ったものとも、夫を喪ったクララ・シューマンの悲しみを慰めようとしたもの、とも伝えられる。ブラームスはクララへの手紙の中で、この楽章を新たに書き起こしたことについて

「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」

と述べている。

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