2006/04/12

ブラームス ピアノ協奏曲第1番(第1楽章)

 


ブラームスは言うまでもなくバッハ、ベートーヴェンと並び、ドイツ音楽に於ける「三大B」と称される一人である。作風は概ねロマン派音楽の範疇にあるが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。多くの人は、ブラームスをベートーヴェンの後継者として捉えており、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。

 

ブラームスは、ハンブルクで生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者であった。ピアノの早熟な才能を現し、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。レストランや居酒屋でピアノを演奏することによって、家計を補った。

 

ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であった。演奏活動は行っていたが、後に作曲専業になることを決意して演奏活動からはほぼ手を引く。しかしながら1859年と1881年には、ピアノ協奏曲第1番とピアノ協奏曲第2番の初演を自ら行っている。この2曲のピアノ・パートは共に難度が高く、これを自分で弾きこなしたブラームスのピアノ演奏技術は、かなり高いものであったと思われる。

 

その後、演奏よりも創作活動に興味を持つようになって作曲を始めたが、1851年になるとすでに自己批判から、作品を廃棄し始めていた(よって19歳以前の作品は記録が残るのみで、まったく現存しない)

 

1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが、ブラームスの創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム、フランツ・リストとロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった。ここで「三大B・ブラームスの誕生」に繋がる、運命的な出会いを迎えた。

 

20代前半の作とは、とても信じられないような渋く重厚な作品である。

 

ピアノ協奏曲第1番は、初期の短調による室内楽曲と同じように懊悩と煩悶、激情といった、後年のブラームス作品には見られない表情が顕著である。ことこの曲については、作曲時期にブラームスが内面の危機を抱えていた事が大きい。1856年に恩人シューマンが他界し、残された私信などから、その頃のブラームスは未亡人となったクララに、狂おしいほどの恋愛感情を抱いていた可能性が高いことが分かっている。

 

また初演当時まだ25歳という若さもあってか、冒険的な要素も多い。例えば伝統的な協奏ソナタの主題提示と異なり、第1楽章の第2主題はピアノにより提示されることや、19世紀のヴィルトゥオーゾによる協奏曲のように、オーケストラを独奏楽器の単なる伴奏として扱うのではなく、独奏楽器と効果的に対話させてシンフォニックな融合を目指したことなどが挙げられる。ただしブラームスの努力は本作では完全には実現されず、かなり後の《ヴァイオリン協奏曲》や《ピアノ協奏曲 第2番》において具現化された。

 

古典的な3楽章構成を取ってはいるものの、全体の長さ、特に第1楽章が協奏曲の一般的な概念から考えてもいささか長大であったり、当初から「ピアノ助奏つきの交響曲だ」という指摘が多かったように、同時代の同ジャンルの曲に比べて内容が重く、ピアノが目立たないというのも異例だった。また、成熟期の作品に比べるとまだ管弦楽法が未熟で、とりわけ楽器間のバランスに問題があるなどの欠点を抱えた作品である。


 「ピアノ助奏つきの交響曲」との評価はあるものの、後年のピアノ協奏曲第2番に比べピアニストの腕を見せる技巧的なパッセージも少なくない。レパートリーにしているピアニストも多いが、ブラームス自身がかなり卓越したピアニストであったため、技術的には難しい部類に入る。特に第1楽章の『ブラームスのトリル』と呼ばれる、右手の親指と薬指でオクターヴ、小指で一つ上の音を続けて演奏するトリルが有名。この部分は特に薬指と小指を酷使するため、左右の手で交互にオクターヴを弾くピアニストもいる。オーケストラについてはブラームスの楽器の好み、とりわけホルンやティンパニへの興味が早くも現れているが、どちらのパートも演奏が難しいために悪名高い(レパートリーの多いカラヤンでさえ録音を残していない)


「木星は太陽になりそこねた惑星」と言われるが、この協奏曲は「交響曲になりそこねた音楽」だと言える。とはいえ、個人的には「三大ピアノ協奏曲」以上に並ぶくらいか、それ以上に好きな曲だ。

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