2017/03/19

三輪山(1)

  三輪山は、奈良県の最北部一帯の奈良盆地の南東部位置する奈良県桜井市の南東部にそびえる、なだらかな円錐(えんすい)形の美しい姿をした山である。標高467m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。

 

三輪山は、おそらく縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。

 

古墳時代にはいると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、つまり、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。

 

200から300メートルの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(すじんてんのう)・第12代の景行天皇(けいこうてんのう)の天皇陵 陵があるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は魏志倭人伝 『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)にあらわれる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。

 

『記紀』には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神、大物主神(おおものぬしのかみ)、別称三輪明神(みわみょうじん)の伝説が、載せられている。よって三輪山(みわやま)は神の鎮座する山、神名備(かむなび)とされている。

 

 奈良県桜井市の東部にそびえる神体山。

 

『古事記』には,活玉依毘売のもとに美和山の神が夜な夜な通い懐妊させたが,活玉依毘売は,夫の名を知ろうとして麻糸を衣の裾(すそ)につけると,鉤穴を抜け通り手もとに三勾遺った。その糸をたどると美和の神の社に至ったので,神(大物主神)が夫であることを知った。それより、この神を三勾(三輪)の神と称したという。この地名由来伝承に対し、神座(岩倉)が辺津(へつ)・中津・奥津の三つ置かれて祭られていることによるとも言う。

 

古来、三諸(みむろ)の山とも表記され『日本書紀』の一書に「日本国の三諸山」と言ったとある。大物主神は,「蛇神」として尊崇を受けていたらしく、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)はこの神の妻となり、三輪山の山麓の箸墓に葬られたと伝えている。

 

『出雲神賀詞』には、大国主命の和魂とされ〈倭の大物主くしみかたまの命と名を称(たた)えて、大御の神奈備に坐せ〉と宣べている。

 

『万葉集』に「味酒三輪の山」と歌われるのは、ミワに神酒を盛ることから由来し、それより三輪の神に酒神の信仰が付与されるようになった。

 

山の西北の麓には玄賓僧都の庵があり、『古今集』には

 

〈我が庵は 三輪の山もと 恋しくば とぶらひ来ませ 杉立てる門〉

 

の歌がある。これらをもとにして,謡曲「三輪」がつくられた。

 

三輪明神の発見

 旧織田村の東、茅原山のかたわらにある小さな家から、昔、ひとりの尼が、毎日毎日三輪の方へいっては、水をくんでかえっていた。ひとりの僧がそれを見とがめて、いったい毎日どこまで水をくみにいっているのかと尋ねた。

 

尼の答えには、三輪山のふもとに、一つの小さなほこらがある。そしてそこから、きれいな水がわいている。尼はその神様を拝みがてら、清水をくんでくるのだと、くわしくその場所を教えた。

 

僧は不思議に思って、教えられた通りのところを尋ねてみると、全く思いがけないところに祠と泉とがあった。

 

それで、そのことをあまねく人々にも知らせ、ついに三輪明神とした。これが今の大神神社のもとだという。

 

三輪の由来 磯城郡大輪町(旧磯城郡三輪町)

 陶都耳命には、活玉依姫という美しい姫があった。ある夜の真夜中に、世にもまれなりっぱな若い男がきて、姫と夫婦のちぎりを結んだ。間もなく姫は妊娠した。父母は驚いた。

 

「お前はたしかに妊んでいるが、夫がいないのにどうしたのか。」

 

と問うた。姫は

 

「名も何も知りませんが、姿のたいへん麗しい男の人が毎晩きて、夜明けになりますと、どこかへ帰って行きます。」

 

と答えた。

 

「今夜その男がきたら、寝床のあたりに赤い土をまいて置き、緒環(おだまき)の絲の端を針にとおして、男の着物のすそに刺しておけ。」

 

と父母は教えた。

 

姫は教えられた通り、衣のすそを針に刺しておいた。夜が明けてから見ると、室の周囲の赤土には足跡はなく、糸は戸のかぎ穴からぬけ出て、三輪山の神の杜に入り、家には緒環にわずかに三輪だけが残っていた。それから、この地を三輪と呼ぶことになった。

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