2017/03/29

大国主神の国譲り

国譲りは、日本神話において、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)ともいう。

 

天忍穂耳命の派遣

高天原に住む天照大御神は

「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」

と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き

「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」

と高天原の天照大御神に報告した。

 

天菩比命の派遣

高御産巣日神と天照大御神は、天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。思金神と神々が相談して「天菩比命(あめのほひ)を派遣するのが良い」という結論になった。高木神と天照大御神は、天菩比命に葦原中国を統べる大国主神の元へ行くよう命じた。しかし、天菩比命は大国主神の家来となり、3年経っても高天原に戻らなかった。

 

天若日子の派遣と死

高御産巣日神と天照大御神が、八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して

「天津国玉神の子である天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべき」

と答えた。そこで、天若日子に天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之羽々矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。

 

しかし、天若日子は大国主神の娘の下照比売(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企み8年たっても高天原に戻らなかった。これを不審に思った天照大御神と高御産巣日神は、八百万の神々と思金神の勧めで雉名鳴女(きぎしのななきめ)を派遣して、使命を果たさない理由を天若日子に尋ねさせた。

 

鳴女が天若日子の家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(あめのさぐめ)が

「この鳥は鳴き声が不吉なので、射殺してしまいなさい」

と天若日子をそそのかした。

 

そこで彼は、高木神から与えられた天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)で鳴女の胸を射抜き、その矢は天照大御神と高木神の所まで飛んで行った。

 

高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天羽々矢であると諸神に示して

「天若日子は命令に背かないで、悪い神の射た矢が飛んで来たのなら、この矢は天若日子に当たるな。もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」

と言って矢を下界に投げ返した。矢は朝の寝床に寝ていた天若日子の胸を射抜き、彼は死んでしまった。

 

天若日子の死を嘆く下照比売の泣き声を、天にいる天若日子の父・天津国玉神や母が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)を作った。天若日子によく似ていた阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこね)が弔いに訪れた時、天若日子の父と妻が

「我が子は死なないで生きていた」

「私の夫は死なずに生きていた」

と言って阿遅志貴高日子根神に抱きついた。

 

すると、阿遅志貴高日子根神は

「友人だからこそ弔問に来た。どうして穢らわしい死人と見間違えるのか」

と怒り、大量(おおはかり)という剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山であるという。阿遅志貴高日子根神の妹の高比売命は、以下の歌を詠んだ。

 

阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曽也

天あめなるや 弟棚機おとたなばたの うながせる 玉の御統みすまる 御統に 穴玉はや み谷 ニふた渡らす 阿治志貴高日子根の神ぞや

(天上の若い織姫が首に掛けている玉飾り、その玉飾りの大きい玉のような方は、谷を二つも渡られた阿遅志貴高日子根神です)

 

建御雷神と天鳥船神の派遣・事代主神の服従

天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は

「伊都尾羽張神(いつのおはばり、天尾羽張神)か、その子の建御雷之男神(たけみかづちのお)を遣わすべき」

と答えた。天尾羽張神は

「建御雷神を遣わすべき」

と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて、葦原中国に遣わした。

 

建御雷神と天鳥船神は、出雲国の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主神に

「この国は、我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」

と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の八重事代主神(やえことしろぬし)に訊ねるよう言った。事代主神はその時、鳥や魚を獲りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神を連れて帰り、国譲りを迫った。

 

これに対して事代主神が

「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」

と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作って、その中に隠れた。

 

建御名方神の服従

建御雷神が

「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」

と大国主神に訊ねると、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言った。その時、建御名方神が千引石(ちびきのいわ)を手の先で持ち上げながらやって来て

「ここで、ひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」

と建御雷神の手を掴んだ。建御雷神は手をつららに変えて、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げたので、建御名方神は逃げ出した。

 

建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとした。すると、建御名方神は

「恐れ入りました。どうか殺さないでください。この土地以外のほかの場所には行きません。私の父・大国主神や、事代主神の言葉には背きません。天津神の御子の仰せの通りに、この葦原中国を譲ります」

と言い、建御雷神に降参した。

 

大国主神の国譲り

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は

「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)(「遠く離れた場所」、「遠い隅の方」を意味する。「百足らず」は「八十(やそ)」の枕詞で、「クマ」は「隠れたところ」の意。「テ」は方向を示す。)へ隠れましょう。私の180柱の子神たちは、長男の事代主神に従って天津神に背かないでしょう」

と言った。

 

すると、大国主神のために出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に宮殿が建てられ、水戸神の孫・櫛八玉神(くしやたま)が沢山の料理を奉った。

 

建御雷神は、葦原中国の平定をなし終えると、高天原に復命した。

出典Wikipedia

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