2017/03/06

因幡の白兎(1)

因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)とは、日本神話(古事記)に出てくるウサギ、または、このウサギの出てくる物語の名。『古事記』では「稻羽之素菟」(稲羽の素兎)と表記。

 

概説

この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国を持ったかを説明する一連の話の一部である。『先代旧事本紀』にあって『日本書紀』にはない。後者で「大国主の国づくり」の話は、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の直後に続く。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。

 

『古事記』上巻(神代)にある大穴牟遲神(大国主神)の求婚譚の前半に「稻羽之素菟」が登場し、大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける。

 

今日では、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」という部分だけが広く知られている。

 

古事記

『古事記』中の大國主神の文のうち、稻羽之素菟(稲羽の素兎)に関する内容の現代語訳と原文を示す。

 

大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神)は八十神(やそがみ=兄弟)から嫌われていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた。

 

「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いている。すると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた。

 

菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。

 

そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

 

その兎は「八十神は八上比賣を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。

 

解説

稻羽

因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場すなわちイネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。また、「往ぬ」「去ぬ」という動詞からきているとして和歌などにも「去ろう」「帰ろう」との意味で詠まれてきた。これを因幡とするのは、大国主の話の前後に彼の義父・素戔嗚命の話があり、素戔嗚は出雲に住んだので、物語の展開上、その近隣の因幡を指すとされてきた[誰によって?]

 

淤岐嶋

「淤岐嶋」には、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説、ほかの島(沖之島等)とする説[要出典]がある。他に、『古事記』の他の部分では隠岐島を「隠伎の島」と書くのに、「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、あるいは「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など陸地から離れた「沖」を指すことが多いため、「淤岐嶋」は特定の場所ではなく、ただ「沖にある島」を指すとする説もある。

 

「気多の前」の位置には諸説あり、「淤岐嶋」を島根県隠岐郡と解釈して隣県鳥取市の「気多の岬」(旧鳥取県高草郡から同気高郡に改編)とする説や、同じ市の「長尾鼻」(旧気多郡のち気高郡)とする説などがある。なお、『因幡国風土記(逸文)』には話の舞台が「因幡の高草郡」と記されている[要出典]

 

「淤岐嶋」を島根県隠岐郡としたとき、鳥取市(旧高草郡)の白兎海岸の沖合150メートルにある島まで点々とある岩礁を「わに」とする説もある。その周辺には「気多の岬」、菟が身を乾かした「身干山」、兎が体を洗った「水門」、かつては汽水域の湿地で戦前まで蒲が密生したという「不増不滅之池」、「白兎神社」などがある。

 

白兎神社

白兎神社に関しては、江戸時代初期の鳥取藩侍医小泉友賢の『因幡民談記』では、『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』に「老兔」の記載があるため、大兔(おおうさぎ)明神は老兔(ろううさぎ)明神である」と考察し、菟は〓(にんべんに竹の右側)草の林の「老兔」であり、洪水によって林から流されると〓の根に乗って沖の島に着いた。帰るために「鰐という魚」をたばかって、己とおまえとどちらが家族が多いか数えようと言って鰐を集めて、その背を渡ったという。

 

平安時代の『延喜式』神名帳の因幡国に白兎神社の記載はないが、それだけで平安時代に存在しなかったとはいえない。また、八上比売を祀る神社に鳥取市の売沼神社(旧八上郡のち旧八頭郡)をあてる説があり、『延喜式』の八上郡に売沼神社の記載がある[要出典]

出典 Wikipedia

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