その国から出発して東へと向かいました。
浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。
ナガスネヒコが戦いを挑んできたので、イワレビコ命とイツセ命は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。その土地を現在は日下の「タテツ(盾津)」といいます。
トミビコ(ナガスネヒコ)と戦ったとき、イツセ命は手に矢を受けて傷を負いました。
傷を受けたとき、イツセ命は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに、日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して、その手を血で洗いました。
それで「血沼海」と呼ぶようになりました
その地(地沼海)から更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。
「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、死んでしまいました。
その水門(ミナト=港)を、名づけて男乃水門(オノミナト)というようになりました。イツセ命の墓は紀伊の国の竈山(カマヤマ)にあります。
太歳甲寅冬十月−2
筑紫國(ツクシノクニ)の菟狹(ウサ)にたどり着きました。
菟狹(ウサ)は地名です。宇佐(ウサ)と読みます。
そのとき、菟狹國造(ウサノクニノミヤツコ)の祖先の菟狹津彥・菟狹津媛(ウサツヒコ・ウサツヒメ)が居ました。菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って、(神武天皇を)奉り、宴会をしました。
一柱騰宮は阿斯毗苔徒鞅餓離能宮(アシヒトツアガリノミヤ)といいます。
そのとき、菟狹津媛(ウサツヒメ)を(神武天皇の)家臣である天種子命(アメノタネコノミコト)に娶らせました。
天種子命(アメノタネコノミコト)は中臣氏の遠い祖先です。
太歳甲寅11月
11月の9日、神武天皇は筑紫國(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日、安芸國の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備國(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)は、ついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速國(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのは、これらが訛ったものです。
訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内國(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)靑雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
戊午年夏四月、夏四月の九日。
皇師(ミイクサ)は兵を整えて、歩いて龍田(タツタ)に向かいました。その道は狭く険しく、人が並んで行けないほどでした。そこで引き返して、東の膽駒山(イコマヤマ)を越えて、中洲(ウチツクニ=大和)に入ろうとしました。
そのとき長髄彥(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。
「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」。
それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。
皇師(ミイクサ)はこれ以上、進軍し戦うことは出来ませんでした。そこで天皇(スメラミコト)は残念に思い、神策(アヤシキハカリゴト=名案)を沖衿(ミココロノウチ=心の中)で廻らし、言いました。
「今、わたしは日の神の子孫(ウミノコ)なのに、日に向いて敵に向かったのは、天道(アメノミチ)に逆らうことだ。ここは一旦、退却し弱いと思わせ、神祇をよくよく祀り、背に日の神の勢いを背負い、日陰が挿すように敵を襲い倒そう。そうすれば剣を血で汚さずとも、敵は必ず自然と破れるだろう」
皆(=部下)は、言いました。
「その通りです」
そこで軍中(イクサ)に令(ミコトノリ)して言いました。
「しばらく止まれ、もう進軍するな!」
すぐに軍(イクサ)を率いて退却しました。敵もまた攻めて来なかった。(神武天皇の軍は)退却して草香之津(クサカノツ)に到着して、盾を揃え並べ雄誥(オタケビ)をあげました。
雄誥は烏多鶏縻(オタケビ)といいます
それで、その津(=港)を盾津(タテツ)と名付けて言うようになりました。今は蓼津(タデツ)というのは訛ったからです。初めの孔舍衞(クサエ)の戦いで、ある人物が大きな木に隠れて難を逃れました。それでその木を指して
「母のように恩がある」
といいました。
それで世の人は、その場所を「母木邑(オモノキノムラ)」といいます。今、飫悶廼奇(オモノキ)というのは、それが訛ったものです。
五月の八日。
イワレビコの軍隊は茅淳(チヌ)の山城(ヤマキ)の水門(ミナト)、別名を山井水門(ヤマノイノミナト)に到着しました。茅淳は智怒(チヌ)と読みます。
その時、五瀬命(イツセノミコト)の矢の傷がとても痛みました。撫劒(ツルギノタカミトリシバリ=剣の柄を握って)して雄叫びしました。
撫劒は都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(ツルギノタカミトリシバル)と読みます。
「なんてことだ!!!!
男が、敵に傷を負わされて、やり返さずに死んでしまうのか!」
世の人たちは、それからこの(イツセ命が雄叫びした)場所を「雄水門(オノミナト)」と呼ぶようになりました。
軍を進めて紀伊國の竃山(カマヤマ)に到着したとき、五瀬命(イツセノミコト)は亡くなってしまい、竈山に葬りました。
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