口語訳:その国からさらに東へと上り、浪速の渡りを過ぎ、白肩の津に停泊した。このとき、登美の那賀須泥毘古は軍を出動させ、待ち受けて戦を仕掛けてきた。そこで(皇軍の兵士は)舟にあった盾を取って、舟から下り立った。それでそこを楯津と名付けたが、今は日下の蓼津と言う。ここで登美毘古と戦っている間に、五瀬命は登美毘古の放った矢で、手に傷手を負った。そこで「私は日の神の子だから、日に向かって戦うのは良くない。そのために、賤しい奴に傷手を負わされたのだ。これから迂回して、日を背に負って戦えばきっと勝てるだろう」と言い、南の方へ舟を進めた。血沼海に到って、手の血を洗った。そこで血沼海と言うのである。そこから更に南へ回って、紀国の男之水門に到ったとき(傷の具合が悪くなり)、「奴(やつこ)の手にかかって死ぬのか」と言い、雄叫びを上げて死んだ。そこでその水門を男之水門と呼ぶ。御陵は紀国の竃山にある。
○日神(ひのかみ)。天照大御神を日神と呼ぶのは、ここが初出である。上巻には天照大御神としか書いていないのを、こう呼び方を変えているのは、上代には、その神自身が行ったり見聞きしたことを語るには、その神の名を用い、【このことは、後の高倉下(たかくらじ)の夢の段も同じ。】
ここでは高天の原にいる神を、この地上の国から仰ぎ見る立場で【次に「日に向かって」とあるのを合わせて考えよ。】言うので、こういう言い方になったのだ。これらを見ても、古言の使い分けの精細なことを知るべきだ。【書紀は漢文を真似るのが主旨なので、こうしたところでは古言に関係なく書いており、神代巻でも「日の神」という語がよく出る。】
○御子(みこ)とは、御子孫を言う。子孫は何代後でも、すべて子と言うことは、前に述べた。○向日(ひにむかいて)。前には「日神」と言ったのが、ここでは単に「日」と言っている。これまた古言の細かな使い分けである。前にはその御子と言ったので、神という言葉を添えて言い、今度は単に仰ぎ見る日のことを言うだけだから、神とは言わない。【これらは、煎じ詰めれば違いはないようだが、よく考えるとやはり多少の違いがあるだろう。今の世の人でも、単に天の日を言うときに天照大御神とは言わず、日とだけ言う。しかしこの神の身に起こったことを言うときには、天照大御神と言い、「~し賜う」、「~坐(ま)す」などと、尊敬語を付けて言う。天の日については、単に「日が出る」、「日が入る」などとだけ言い、「出賜う」、「入り賜う」などとは言わないけれども、「不敬だ」とはせず、神代の沼河比賣の歌にも「日が隠らば」とあるから、これはおのずと古意の使い分けに適っている。
○ここで皇祖を日の神と言い、天の日をただ日と言っているので、天照大御神と天の日とは異なるものと考えるのは間違いだ。天照大御神がすなわち天の日であることは、上巻に言った通りである。】日は東から出て、西の方へ廻って行くものなので、東に向かって戦えば、それに逆らうことになる。
0 件のコメント:
コメントを投稿