2018/05/31

ヘーパイストス(ギリシャ神話37)

ギリシア語:ヘパイストス(Hephaistos)、ラテン語:ウルカヌス(Vulcanus)、英語:ヴァルカン(Vulcan
ヘーパイストス(古希: ΗΦΑΙΣΤΟΣ, φαιστος, Hēphaistos)は、ギリシア神話に登場する神である。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスらを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金鎚、矢床である。

その名前の語源は「」、「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、インド神話の火の神・ヤヴィシュタに由来するともいわれる。古くから小アジア及びレームノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神といわれる。

ローマ神話ではウゥルカーヌス(Vulcānus)に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みしたウゥルカーヌス(Vulcan)や、日本語では長母音を省略してヘパイストスやヘファイストスとも呼ばれる。

ゼウスとヘーラーの息子で第1子。ゼウスは前妻であるテミスとの間にホーライ3姉妹やモイライ3姉妹などをもうけた。ゼウスが前妻との間に立派な子を儲けていたことに焦ったヘーラーが、正妻としての名誉を挽回するべく産んだ子供であるとされる。ところが、生まれたヘーパイストスは両足の曲がった醜い奇形児であった。これに怒ったヘーラーは、生まれたばかりのわが子を天から海に投げ落とした。その後、ヘーパイストスは海の女神テティスとエウリュノメーに拾われ、9年の間育てられた後、天に帰ったという。

ヘーパイストスはその礼として、テティスとエウリュノメーに自作の宝石を送っている。あるいはヘーラクレースが乗る船を嵐で目的地よりかなり離れたコス島に漂流させて彼を妨害した為、ゼウスから罰せられそうになったヘーラーをかばおうとしたためにゼウスに地上へ投げ落され、1日かかってレームノス島に落ち、シンティエス人に助けられたといわれており、この時に足が不自由になったとされる。

神々の武具を作ることで有名なヘーパイストスだが、自ら戦うこともあり、『イーリアス』ではヘーラーに命じられてアキレウスを襲う河の神と対決し、決して弱まらぬ炎を放って巨大な河そのものを瞬時に沸騰・蒸発させ、河の神スカマンドロスを屈服させている。ゼウスがアテーナーを産んだ時、ゼウスが痛みに耐えかねてヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割ったことでも有名である。

一般にはゼウスとヘーラーの息子とされるが、ヘーラーが1人で生んだという伝承もある。それによればヘーラーはゼウスと対立し、ゼウスと交わらずに1人で生んだという。またゼウスは男性ながら、美貌と才気を兼ね備えた女神アテーナーを出産したが、ヘーラーの生んだヘーパイストスは醜い子供だったので、これにより正妻としての面目を失ったヘーラーは、対抗してティーターンの力を借り、自分も1人で子テューポーンをもうけたという。なお、ヘーラーが一人で生んだのは、アレースとする伝承もある。

ヘーパイストスの妻はアプロディーテーとも、カリスのアグライアーともいわれる。一説には天上の妻はアプロディーテーであり、地上の妻はカリスであるという。ヘーパイストスの子供には、アテーナイの王エリクトニオス、テーセウスに退治されたペリペーテース、アルゴナウタイの1人であるパライモーンなどがいる。

アプロディーテーとの結婚
ヘーパイストスは、最初はアプロディーテーと結婚した。結婚の経緯には諸説あるが、有名なものは以下である。

オリュンポスの神々に加えられたヘーパイストスであるが、ヘーラーの彼への冷遇は続き、彼は母への不信感を募らせていった。そんなある日、ヘーパイストスからヘーラーに豪華な椅子が届けられた。宝石をちりばめ、黄金でつくられ、大変美しい椅子で、その出来に感激した上機嫌のヘーラーが椅子に座ったとたん、体を拘束され身動きが取れなくなってしまった。そこでヘーラーがヘーパイストスに拘束を解くよう命じると『自分を貴方様の実の子であると認め、神々の前で紹介してください』と言った。

醜さゆえ、自分が捨てた子で認めたくもなかったヘーラーであったが、このままでいるのも恥ずかしい。仕方なく要求に応じ、ヘーラーも認めた。だが、母に疑心暗鬼になっていたヘーパイストスは、ヘーラーが助かりたい一心であり本心で言った言葉ではないと考え、信用せず拘束を解かなかった。そして

『なら私をアプロディーテーと結婚させてくれますか?
出来ないでしょう。軽々しく言わないでください』

と言ったのである。ところがヘーラーは、助かりたい一心でこれを了承。驚いたヘーパイストスであったが、急いでヘーラーを解放。そして、ヘーパイストスはアプロディーテーと結婚することになったのである。
出典 Wikipedia

2018/05/26

バビロン捕囚


バビロン捕囚は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた事件を指す。バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。

西暦前587年または586年、ネブカドネザルはエルサレムを滅ぼした。ラキシュやアゼカを含め、ユダの他の都市も征服した。ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させ、人々は捕囚にされる。 流刑の後、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。

ユダの捕囚民
ユダの捕囚民の大部は、バビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(『エゼキエル書』による)。この地域は、かつてアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは、減少した人口を補うためであったと考えられる。一方で職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ、主としてネブカドネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事することになった。

『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達は、このバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。これに対し、エレミヤとエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。しかし、上述した如く紀元前586年にエルサレム神殿が破壊されると、ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。

ユダヤ人とバビロニア文化
すぐに故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻と消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は、現地の文化の著しい影響を受けた。12世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)の例に見られる如く王族の間ですら、その傾向は顕著であった。

また月名にバビロニア月名が採用された。旧来のユダヤ月名は「第一月」「第二月」のように番号でもって呼称されていたが、これが「ニサン月(第一月)」「イヤル月(第二月)」のように、バビロニア名で呼ばれるようになった。

そして文字文化にも、大きな影響が齎された。旧来の古代ヘブル文字に変わってアラム文字草書体が使用されるようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるようになった。

一方でバビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになった。バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も、旧約聖書学で「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれている宗教者たちにより記述されていった。後のローマ帝国以降のディアスポラの中でも失われなかったイスラエル民族のアイデンティティは、こうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されている。

オリエントの強制移住
古代オリエント社会においては、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わるものではない。紀元前592年、捕囚民に対して与えられた食料の供給リストがバビロンから出土しているが、このリストにはユダ王エホヤキンやユダヤ人ガディエル、セマフヤフ、シェレミヤフなどの名前とともにツロ人、ビュブロスの大工、エラム人、メディア人、ペルシア人、エジプト人、ギリシア人などの名が上げられており、広範な地域から人間が集められた事がわかる。

ユダヤ人のバビロン捕囚は、こういった強制移住政策について今日最も詳細に記録が残されたものとして重要性を持つ。

バビロン捕囚の終焉
西暦前537年の初めごろ、ペルシャの王キュロス2世は、捕らわれていた者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた、42,360人の「流刑囚の子ら」に加えて、7,537人の奴隷や歌うたいたちが約4か月の旅をした。アイザック・リーサー訳の聖書の第6版の脚注は、その人数が婦女子を含めて約20万人に達したことを示唆している。彼らは秋の第7の月までに自分たちの都市に定住した。
出典 Wikipedia

2018/05/25

神武東征(日本書紀)

甲寅年(紀元前667年)

この年、日向国にあった磐余彦尊は、昔我が天神あまつかみ、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖あまつみおや彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊、天関あまのいはくらを闢ひきひらき雲路を披おしわけ、仙蹕みさきはらひ駈おひて戻止いたります。是の時に運よ、鴻荒あらきに属あひ、時、草昧くらきに鍾あたれり。故かれ、蒙くらくして正ただしきみちを養ひて、此の西の偏ほとりを治しらす。皇祖皇考みおや、乃神乃聖かみひじりにして、慶よろこびを積み暉ひかりを重ねて、多さはに年所としを歴たり。

天祖の降跡あまくだりましてより以逮このかた、今に一百七十九万二千四百七十余歳ももよろづとせあまりななそよろづとせあまりここのよろづとせあまりふたちとせあまりよほとせあまりななそとせあまり。而るを遼邈とほくはるかなる地くに、猶未だ王沢うつくしびに霑うるほはず。

遂に邑むらに君有り、村ふれに長ひとごのかみ有りて、各自おのおの疆さかひを分かちて用もて相凌ぎ礫きしろはしむ。抑又はたまた塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「東ひむがしのかたに美よき地くに有り、青山四よもに周めぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。余われ謂おもふに、彼その地は必ず以て大業あまつひつぎを恢弘ひらきのべて天の下に光宅みちをるに足りぬべし。蓋けだし六合くにの中心もなかか。厥その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂いふか。何ぞ就ゆきて都つくらざらむ。

と言って、東征に出た。

 

伝 一柱騰宮跡(宇佐市)

105日、磐余彦尊は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦・菟狭津媛が造った一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊は勅して、媛を侍臣の天種子命(中臣氏の遠祖)とめあわせた。

119日、筑紫国崗水門に至った。

1227日、安芸国に至り埃宮に居る。

 

乙卯年(紀元前666年)

36日、吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。

 

戊午年(紀元前663年)

211日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。

310日、河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。

49日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえのさか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は、日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは、天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。

 

58日、茅渟の山城水門(やまきのみなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山にいたった時に薨じた。

 

623日、名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命と三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は、息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは、八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。

 

82日、菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命(大伴氏の遠祖)を送って、これを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。

 

95日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると、八十梟帥や兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊は、この夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊は、この埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。

 

101日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。117日、八咫烏に遣いさせ、兄磯城・弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦の献策により忍坂から女軍を、墨坂から男軍を送ってこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

 

124日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。磐余彦尊は天神の子は多いと答え、そのしるしを見せよと求めた。長髄彦は饒速日命のもっている天羽々矢などを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊も同じしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。

 

己未年(紀元前662年)

221日、磐余彦尊は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。

 

37日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。

庚申年(紀元前661年)

 

816日、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

 

辛酉年(神武天皇元年、紀元前660年)

11日、磐余彦尊は橿原宮に即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。

2018/05/24

ソクラテスの原理(9)


 その具体的な追求のありかたですが、人生の行動のあり方において、人はたとえば損・得とか、快・苦とか、あるいは常識とか「ある一つの原理・原則」を立てて行動するものだけれど、自分(ソクラテス)の場合にも「これが正しいかな」と思われる「行為の原理・原則」を立てて行動しようとします。その「原理・原則」について、そこにどんな小さい些細なことでも「矛盾・疑問や反対」があるなら、それをとことん追求して、その矛盾や疑問や反対が解決・解消するように「吟味」を繰り返してみようとします。もちろん、これに「終わり」などないわけですけれど「現時点では、これが一番矛盾も反対もない」という形で「回答」を出すことは可能です。

 ソクラテスの場合、その「人生の行動原理」を具体的な場面で様々に言っていますけれど、有名なのが「人はただ生きるのではなく、良く生きることが大切なのだ」というものがあります。これは「人生とは長生きしさえすれば良い」というものではなく「これこそが良き人生だと確信の持てるあり方で人生を送り、そこにおいて死の危険があってもそれを引き受けて、その人生のあり方を全うすべきだ」というものです。

 そして具体的に、自分の身代わりとなって死んだ親友の仇を討つために命をかけた伝説の英雄アキレウスや、愛のために自らの命を差し出した神話上の女性の名前などを引用して「己の信念を貫いて、そのために死を選ぶことすらあり得るような、そうした人生のあり方に真実の人生が見られる」ということを言ってきます。これは、具体的にソクラテスが無実の罪で死刑にされていった時の信念の言葉でした。

 もちろん、だからといって簡単に死を引き受けてよい、といっているわけではありません。「死を選ばざるを得ない」という場面のことであり、その時とは「自分の人生」が台無しになってしまうと思われた時だけのことです。そして、ソクラテスは「自分の人生」のあり方の原理として「善く生きると正しく生きると美しく生きる」とは同じことであり、従って「正しく生きよう」とし、それにかかわって具体的に「不当に相手を害することは不正」としたのです。

 こうした人生の原理・原則について、ソクラテスは様々のところで様々に語ってきますけれど、一番切実な場面は死刑判決を受けた後の「脱獄の勧め」という局面でした。

「死」がかかっていたからです。ソクラテスは無実の罪で訴えられ「不正に」死刑を受けています。ですから弟子たちは「脱獄すべき」だと思いました。そして、それは可能な状況にあったらしいことが、様々な文献から推し量れます。

それに対してソクラテスは、確かに「不正な死刑判決」ではあるけれど、その「不正」を働いたのは「国の法律」だったわけではなく「事態を正しく理解し、正しく法を適応しなかった裁判役」の人たちだとします。

一方「脱獄」というのは、その人たちに対する戦いの行為ではなく「国」に対する反逆罪になってしまい、自分は国を愛しており今回の裁判に関しても法律的におかしかった点があったり、国そのものが不当を働いたわけではないのだから「国家反逆罪」となる脱獄はできない、という結論だったのです。こうして、ソクラテスは「死」を引き受けていったのでした。他方で「裁判役であった人々」に対しては、痛烈な批判の言葉を残しています。

 ソクラテスが民衆裁判で死刑にされる裏には、ソクラテスが有力者達に憎まれていたという背景がありました。そして「若者を堕落させ、神々を認めない」ということで告発され、裁判にかけられてしまったのです。何故憎まれたのかというと、ソクラテスは「真実の人間のあり方」を問題にして、その追求の上で社会の有力者たちに様々な質問を浴びせかけて吟味してしまい、彼らの「欺瞞」を明らかにしてしまったからです。

それだけならまだしも、若者たちがそれを真似して大人たちの生き方を批判するようになったようでした。こうして「若者を害している」とされて告発されてしまったわけですが、しかし実際にはソクラテスにはそんな意図もなく罪などないのですから、それはどうも多くの人々にも理解されていたようで、助かろうと命乞いすれば助かるような状況にありました。

 しかし、そのためには告発者たちが望んでいた「真実の探求」をやめなくてはなりません。つまり有力者達は、ソクラテスに「真実、人間としてのあり方」など追求せず、黙って静かにしていて欲しかったのです。しかし、そんなことをすれば「これまでのソクラテスは何だったのか」ということになるでしょう。

「あるべき人間の生き方を求めること」、「真実を求めること、真の正しさ、真のよさ、真の美しさを求めること」などは「止めてもいいもの」になってしまいます。ソクラテスは、「その探求は、命に代えられるものではない」と思ったのです。つまり「彼自身の人生そのものを守った」といえるでしょう。「ただ生きることが人生」ではなく、「こう生きるのがよい、と自らの意志で決断した生を生きることこそが生」だからです。ソクラテスはそう言って、命乞いを拒否して死んでいったのです。

2018/05/21

京料理と出汁/農林水産庁Web

II 京料理の基本

1 京料理と出汁

京料理に何が大切かというのは、京料理に限らずどんな料理でも大切なのは出汁である。日本の出汁というのは、昆布と鰹が主である。外国の出汁は、動物性のものと植物性のものをことこと炊いて時間をかけて抽出したおいしいスープ、おいしい出汁になるというのである。フランス人に言わせると、日本の出汁は昆布とかつおで短時間でできあがり。フランスの出汁は、ことことていねいに時間を掛けると言うけれども、日本の出汁は素材そのものが何ヶ月もかけてつくりだし、それを使って短時間にひくというところに特徴があるといえる。

 

まず出汁を引くには、昆布は硬水にするとそのうま味が出ないので軟水で出汁をとる。今年はうまみが発見されて100年で、池田菊苗先生のうま味が認められて100年目の年である。その昆布のうま味が本当にすばらしいと思うのは、夏解禁になって昆布がとれたそのとき、とれてすぐというのは昆布出汁はでない。1年寝かしてひね、2年以上ねかして大ひねとなる、私どもの乾物屋では、その年のとれたものをそっくり店ごとにわけてしまっている。

 

瓢亭では昔から利尻の一等の昆布をとってもらい、それを大体3年から4年寝かして大ひねにして、それから店に入れてもらっている。であるからほかの店の人がこの昆布がほしいといっても、これは瓢亭の昆布だからということでわけない。利尻昆布が一番いいのだが、利尻昆布というのは北海道の左上の方の利尻、礼文、香深のあたりでとれる真昆布の種類で、それらの昆布は地下水が湧いていて状況が違うらしい。

 

そういう昆布を出汁に使うと、一番澄んでうま味の強いおいしい出汁がひけるというのである。羅臼昆布は、幅が広くてものすごく長い昆布、出汁をひくと色も濃く出汁も濃い出汁が出る。それでうちの店では、色が出過ぎて使いものにならない。だいたいよく求肥昆布に加工される。日高昆布もおいしい出汁が出るけれども、やわらかいので煮昆布、昆布巻、塩昆布そういったものに使われる。

 

出汁に使っている利尻昆布の量は1380グラム、使ってその都度捨てる。新しい女中さんらが、もったいない欲しい言うて持ってかえるけど二度とくれとは言わない、それは持ってかえって手間暇かけて塩昆布を炊いても、かたくて美味しくないからである。それが利尻昆布のいいところである。

 

8升に利尻昆布380グラム、まぐろの削り節が350グラムで出汁をとっている。昆布の表面を水でさっさと洗って入れる、それは8升の水に380グラムの昆布を使っているからで、昆布屋さんに言わせると昆布の表面にはうま味があるからもったいないといわれるが、水に対して昆布をたくさん使っているので出汁が辛くなるため、わざと表面の塩分を落として使っているのである。温度は65度から70度で、ずっとひいていくと1時間前後でうま味が抽出できる。昆布は65度から70度がうま味だけが出て、雑味が出ない状態である。それで1時間前後やったときに、おいしいなと思う出汁が出たら昆布を引き上げて温度を上げ、沸騰寸前になってきたら350グラムのまぐろの削り節を入れる。まぐろは荒節と本枯節の雄節と、雌節の血合抜きをまぜたものを使っている。その削り節を入れて、静かにしずめ表面のアクをとり火を止めて15分から20分ぐらいおいておくと、おいしい出汁が出る。

 

出汁のひき方というのは料理人が10人いたら10人共違うぐらいのもので、みな我流である。私も以前は店の方で違うやり方でやっていたけれども、自分なりに考えてやり出して落ち着いたのが、このやり方である。これは1回ひくときもあれば、2回ひくときもある。暇なときは半量ひいたりもする。鰹節、まぐろ節、さば節、いわし節といろいろあるが、いずれもナマぎり、大きい魚だと五枚におろして小さい魚は三枚におろす。三枚におろすと背かたと腹かたがついた、一枚のかめ節というのができる。大きいもので5枚におろすと背かたが雄ぶし、腹の方が雌節という名前がつくのである。それを一度大きいなざるにならべて煮熟して、ゆでる。ていねいに骨、うろこをとってバイカンして薫製し乾燥させるとこれが一番火、そしてまた薫製して乾燥させてこれが二番火、10回繰り返し10番火まで入れたら最高の荒節(鬼節ともいう)で、真っ黒のタールのついたものができる、これが一つのできあがりになるのである。

 

それを更にきれいに削りとって、カビずけをして乾燥させてというのを5回繰り返すと最高の本枯節になる。これは芯までカビの菌糸が入って、完全に乾燥してカンカンていう固い音がする。折れないけれども折ったときに表面がガラスのような赤紫の透明感がある、すばらしいものができている。これは、あっさりしていてうま味は強いがある意味頼りない。それで私はちょっと頼りないので、荒節(鬼節)と本枯節を半々にまぜてやっている。いろいろやってみたけれども、自分が一番気に入ったものがこの配合で合わせたものとなった。人によっては沸騰させる人もあるし、いろいろあるのでどれが正しいというのではなくて、あれもあればこれもあるというふうにみていただければいいと思っている。本当に出汁というのは大切で、非常にこだわって大事にしているのである。