出典 Wikipedia
2018/05/31
ヘーパイストス(ギリシャ神話37)
出典 Wikipedia
2018/05/26
バビロン捕囚
2018/05/25
神武東征(日本書紀)
甲寅年(紀元前667年)
この年、日向国にあった磐余彦尊は、昔我が天神あまつかみ、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖あまつみおや彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊、天関あまのいはくらを闢ひきひらき雲路を披おしわけ、仙蹕みさきはらひ駈おひて戻止いたります。是の時に運よ、鴻荒あらきに属あひ、時、草昧くらきに鍾あたれり。故かれ、蒙くらくして正ただしきみちを養ひて、此の西の偏ほとりを治しらす。皇祖皇考みおや、乃神乃聖かみひじりにして、慶よろこびを積み暉ひかりを重ねて、多さはに年所としを歴たり。
天祖の降跡あまくだりましてより以逮このかた、今に一百七十九万二千四百七十余歳ももよろづとせあまりななそよろづとせあまりここのよろづとせあまりふたちとせあまりよほとせあまりななそとせあまり。而るを遼邈とほくはるかなる地くに、猶未だ王沢うつくしびに霑うるほはず。
遂に邑むらに君有り、村ふれに長ひとごのかみ有りて、各自おのおの疆さかひを分かちて用もて相凌ぎ礫きしろはしむ。抑又はたまた塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「東ひむがしのかたに美よき地くに有り、青山四よもに周めぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。余われ謂おもふに、彼その地は必ず以て大業あまつひつぎを恢弘ひらきのべて天の下に光宅みちをるに足りぬべし。蓋けだし六合くにの中心もなかか。厥その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂いふか。何ぞ就ゆきて都つくらざらむ。
と言って、東征に出た。
伝 一柱騰宮跡(宇佐市)
10月5日、磐余彦尊は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦・菟狭津媛が造った一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊は勅して、媛を侍臣の天種子命(中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日、筑紫国崗水門に至った。
12月27日、安芸国に至り埃宮に居る。
乙卯年(紀元前666年)
3月6日、吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。
戊午年(紀元前663年)
2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日、河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえのさか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は、日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは、天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。
5月8日、茅渟の山城水門(やまきのみなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山にいたった時に薨じた。
6月23日、名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命と三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は、息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは、八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。
8月2日、菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命(大伴氏の遠祖)を送って、これを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると、八十梟帥や兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊は、この夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊は、この埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ、兄磯城・弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦の献策により忍坂から女軍を、墨坂から男軍を送ってこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。磐余彦尊は天神の子は多いと答え、そのしるしを見せよと求めた。長髄彦は饒速日命のもっている天羽々矢などを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊も同じしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。
己未年(紀元前662年)
2月21日、磐余彦尊は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。
3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。
庚申年(紀元前661年)
8月16日、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
辛酉年(神武天皇元年、紀元前660年)
1月1日、磐余彦尊は橿原宮に即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。
2018/05/24
ソクラテスの原理(9)
2018/05/21
京料理と出汁/農林水産庁Web
II 京料理の基本
1
京料理と出汁
京料理に何が大切かというのは、京料理に限らずどんな料理でも大切なのは出汁である。日本の出汁というのは、昆布と鰹が主である。外国の出汁は、動物性のものと植物性のものをことこと炊いて時間をかけて抽出したおいしいスープ、おいしい出汁になるというのである。フランス人に言わせると、日本の出汁は昆布とかつおで短時間でできあがり。フランスの出汁は、ことことていねいに時間を掛けると言うけれども、日本の出汁は素材そのものが何ヶ月もかけてつくりだし、それを使って短時間にひくというところに特徴があるといえる。
まず出汁を引くには、昆布は硬水にするとそのうま味が出ないので軟水で出汁をとる。今年はうまみが発見されて100年で、池田菊苗先生のうま味が認められて100年目の年である。その昆布のうま味が本当にすばらしいと思うのは、夏解禁になって昆布がとれたそのとき、とれてすぐというのは昆布出汁はでない。1年寝かしてひね、2年以上ねかして大ひねとなる、私どもの乾物屋では、その年のとれたものをそっくり店ごとにわけてしまっている。
瓢亭では昔から利尻の一等の昆布をとってもらい、それを大体3年から4年寝かして大ひねにして、それから店に入れてもらっている。であるからほかの店の人がこの昆布がほしいといっても、これは瓢亭の昆布だからということでわけない。利尻昆布が一番いいのだが、利尻昆布というのは北海道の左上の方の利尻、礼文、香深のあたりでとれる真昆布の種類で、それらの昆布は地下水が湧いていて状況が違うらしい。
そういう昆布を出汁に使うと、一番澄んでうま味の強いおいしい出汁がひけるというのである。羅臼昆布は、幅が広くてものすごく長い昆布、出汁をひくと色も濃く出汁も濃い出汁が出る。それでうちの店では、色が出過ぎて使いものにならない。だいたいよく求肥昆布に加工される。日高昆布もおいしい出汁が出るけれども、やわらかいので煮昆布、昆布巻、塩昆布そういったものに使われる。
出汁に使っている利尻昆布の量は1回380グラム、使ってその都度捨てる。新しい女中さんらが、もったいない欲しい言うて持ってかえるけど二度とくれとは言わない、それは持ってかえって手間暇かけて塩昆布を炊いても、かたくて美味しくないからである。それが利尻昆布のいいところである。
水8升に利尻昆布380グラム、まぐろの削り節が350グラムで出汁をとっている。昆布の表面を水でさっさと洗って入れる、それは8升の水に380グラムの昆布を使っているからで、昆布屋さんに言わせると昆布の表面にはうま味があるからもったいないといわれるが、水に対して昆布をたくさん使っているので出汁が辛くなるため、わざと表面の塩分を落として使っているのである。温度は65度から70度で、ずっとひいていくと1時間前後でうま味が抽出できる。昆布は65度から70度がうま味だけが出て、雑味が出ない状態である。それで1時間前後やったときに、おいしいなと思う出汁が出たら昆布を引き上げて温度を上げ、沸騰寸前になってきたら350グラムのまぐろの削り節を入れる。まぐろは荒節と本枯節の雄節と、雌節の血合抜きをまぜたものを使っている。その削り節を入れて、静かにしずめ表面のアクをとり火を止めて15分から20分ぐらいおいておくと、おいしい出汁が出る。
出汁のひき方というのは料理人が10人いたら10人共違うぐらいのもので、みな我流である。私も以前は店の方で違うやり方でやっていたけれども、自分なりに考えてやり出して落ち着いたのが、このやり方である。これは1回ひくときもあれば、2回ひくときもある。暇なときは半量ひいたりもする。鰹節、まぐろ節、さば節、いわし節といろいろあるが、いずれもナマぎり、大きい魚だと五枚におろして小さい魚は三枚におろす。三枚におろすと背かたと腹かたがついた、一枚のかめ節というのができる。大きいもので5枚におろすと背かたが雄ぶし、腹の方が雌節という名前がつくのである。それを一度大きいなざるにならべて煮熟して、ゆでる。ていねいに骨、うろこをとってバイカンして薫製し乾燥させるとこれが一番火、そしてまた薫製して乾燥させてこれが二番火、10回繰り返し10番火まで入れたら最高の荒節(鬼節ともいう)で、真っ黒のタールのついたものができる、これが一つのできあがりになるのである。
それを更にきれいに削りとって、カビずけをして乾燥させてというのを5回繰り返すと最高の本枯節になる。これは芯までカビの菌糸が入って、完全に乾燥してカンカンていう固い音がする。折れないけれども折ったときに表面がガラスのような赤紫の透明感がある、すばらしいものができている。これは、あっさりしていてうま味は強いがある意味頼りない。それで私はちょっと頼りないので、荒節(鬼節)と本枯節を半々にまぜてやっている。いろいろやってみたけれども、自分が一番気に入ったものがこの配合で合わせたものとなった。人によっては沸騰させる人もあるし、いろいろあるのでどれが正しいというのではなくて、あれもあればこれもあるというふうにみていただければいいと思っている。本当に出汁というのは大切で、非常にこだわって大事にしているのである。