口語訳:また高木の大神は「天神の御子は、ここから奥に入ってはいけない。悪神が大勢いるからだ。天から八咫烏を遣わそう。その八咫烏に着いていけばよい」と教えた。そこで教えの通り、八咫烏に着いていくと、吉野川の川尻に出た。そこに梁を作って魚を捕っている人がいた。天神の御子が「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神で、贄持之子と言います」と答えた。<これは阿陀の鵜飼の先祖である。>さらに進むと、井戸から尾の生えた人が出て来た。その井戸の中は光っていた。「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神で、名は井氷鹿と言います」と答えた。<これは吉野の首たちの先祖である。>ここから山に入って進んで行くと、また尾のある人に出会った。この人は大きな岩を押し分けて出て来た。「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神、名は石押分之子と言います。今天神の御子がいらっしゃったと聞いたので、お迎えに参りました」と答えた。<これは吉野の国巣の先祖である。>そこから山を踏み穿ち越えて、宇陀に出た。だから宇陀之穿と言う。
○八咫烏(やたがらす)。名の意味は八頭烏(やあたがらす)で、頭が八つあることだ。八咫は借字だということは、上巻の八咫鏡のところ【伝八の卅四葉から三十八葉まで】で言った。八頭だったのは、かの八俣大蛇が八頭八尾だったのと同じようなことである。八は七、八の八でなく、幾つもあるという意味で言ったのだろう。序文では単に大きな烏と言っている。なおこの烏のことは、八咫鏡のところで論じたことを考え合わせよ。【和名抄には「歴天記にいわく、太陽の中には三足の烏がいて、赤い色をしている。思うに、文選でこれを陽烏とある。日本紀でこれを頭八咫烏と言う」とあるのは不審である。】
八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)。一般的に三本足のカラスとして知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。
咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。
なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。
八咫烏が三本足であることが何を意味するか、については諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。
しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には三本足であるとは記述されておらず、後世に中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったともいわれる。また1939年(昭和14年)に、「天皇の命令」の形式をとる勅令(昭和14年勅令第496号)によって制定された日中戦争の従軍記章たる支那事変従軍記章は、その章(メダル)の意匠に八咫烏を用いるが、これは三本足ではなく二本足であった。一方、1931年(昭和6年)にはサッカー協会のマークとして三本足の鳥を図案化している、これは中国の故事に基づいたものと言われているが、日本サッカー協会のウェッブサイトでは、三足烏(やたがらす)と表現している。
元々賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされ、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など、太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説である。
中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる。
世界の三本足のカラス
上述のように、三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。中国では前漢時代から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている。三脚の特色を持つ三脚巴やその派生の三つ巴は非常に広範に見られる意匠である。
歴史
三本足のカラスは朝鮮半島では、かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている。一方、朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていなかったという。
日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとされる。神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へではなく、東から西へ日の出の方角に向かって攻め入るべきだと考えた。そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。
神話において、八咫烏は熊野の神の使いとしても活躍する。山でイノシシを追っていたある猟師がカラスに導かれて大木をみいだし、そこにみえた光に矢を向けると、「私は熊野の神である」という声が聞こえたため、その神を祀る社を建てたという。このときが、熊野の神が人々の前にはじめて姿を現した瞬間だと伝えられる。
八咫烏の記録は『古事記』『日本書紀』『延喜式』のほか、キトラ塚古墳の壁画や珍敷塚古墳(福岡県)の横穴石室壁画、千葉県木更津市の高部三〇号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられる。
『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原の八咫烏神社は建角身命を祭神としている。
戦国時代には、紀伊国の雑賀衆を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっている。
また、江戸時代の末には、高杉晋作が「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という内容の都々逸を作成してい。これは、熊野の牛玉宝印の札の裏に書いた約束事を破ると熊野のカラスが一羽(または三羽)死に、約束を破った本人も罰を受けるとされていたことから「ほかの男たちとの約束を全て破り、熊野のカラスをことごとく死なせてしまうとしても、あなたと朝寝をしていたい」と、自らの生命を賭けて朝寝を選ぶ、遊女の想いを表現したものである。
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