●地域勢力と大型墳丘墓の出現
時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。
首長層は、墳丘墓に葬られるようになった。
このことは、身分差の出現を意味する。
弥生時代後期になると、墓制の地域差が顕著となっていく。
近畿周辺では方形低墳丘墓が造られ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。
●吉備地域
瀬戸内地方の中でも、吉備と呼ばれる岡山県と広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。
この地域では、首長の葬送儀礼には特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。
これらの土器は、吉備地方で発生後、美作・備前・備中・備後の地域に分布する。
その発達の中心は、備中南部の平野であった。
これらの周辺地域では、使用されていないのが特徴である。
●山陰地域
中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。
これらは、後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。
出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には、台形土器と壺形土器。
出雲と吉備の両地域に、同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。
これらの墓の特徴が、寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成に繋がったとされている。
弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。
時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていったと考えられる。
水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易を巡る争いのため、戦いが起こり時代が進行していった。
近畿では、環濠集落は弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。
●水田農耕
日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてからお米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、明治11年大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる。
では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。
弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。
収穫量は多いとは言えない。
一日辺りの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった。
デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた。
●家畜利用
弥生時代には水田農耕が行われるが、中国大陸における農耕がブタやウマ、ウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた。
これに対し、1988年・1989年に大分県大分市の下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した。
イノシシ類頭蓋骨に関しては、西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ。
1992年には、愛知県の朝日遺跡でニワトリの中足骨が出土している。
弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている。
弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている。
2000年の小澤智生による分析では、12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された。
2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている。
石黒らは、加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している。
また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された。
●縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労
縄文時代の関東地方では、東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた。
関東地方では縄文晩期に貝塚数が減少し、弥生時代前期には縄文型貝塚が消滅するに至る。
一方、三浦半島など外洋沿岸地域では、引き続き外洋漁労が行われている。
外洋漁労の痕跡を残す洞穴遺跡では、外洋沿岸岩礁のアワビやサザエ、外洋性回遊魚のカツオ、サメ、外洋沿岸魚のマダイが出土している。
アワビは縄文時代において出土事例が少なく、弥生時代には潜水漁が行われていたとも考えられている。
遺物では漁具として釣針、銛、ヤスなどが出土しており、特に縄文後期に東北地方太平洋岸で特異的に見られる回転式銛頭が出土している点が注目される。
弥生中期には、全国的に内湾干潟の貝類であるハマグリ・イボキサゴを主体とする貝塚の形成が行われるが、小規模で数も少ない。
漁労においても、大陸から渡来した管状土錘を使用した網漁が行われ、網漁は後に増加・多様化し、瀬戸内海で特に発達した。
内湾型の漁労として、イイダコの蛸壺漁も行われている。
こうした縄文以来の漁労活動が継続した関東においても、弥生中期には稲作農耕社会が成立する。
稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として、神奈川県逗子市の池子遺跡がある。
池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる。
池子遺跡では銛漁やカツオの釣漁、網漁が行われいたと考えられており、カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁・釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられている。
●淡水漁労の開始
弥生時代には稲作農耕の開始により、水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産魚類・貝類を対象とした漁労も行われる。
愛知県清須市の朝日遺跡は、大規模な貝塚を伴う漁労と稲作農耕を兼ねた集落遺跡で、内湾漁労のほかタニシ、コイ科、フナ、ナマズ、ドジョウを対象とした淡水漁労も行われている。
淡水漁労の成立に伴い専用の漁具も生まれ、大阪市八尾市の山賀遺跡や静岡県春日市の辻畑遺跡では淡水魚を捕獲する筌(うけ)と考えられている漁具が出土している。
●各地の漁労活動
北海道では、稲作農耕が需要されなかったため縄文型漁撈が継続し、海獣猟や寒流性の魚類を対象とした狩猟・漁業が行われた。
九州北部では縄文時代に外洋漁業が発達し、西北九州型結合式釣針と呼ばれる独自の釣針が生まれた。
この釣針の分布は、縄文時代には北部九州に留まっているが、弥生時代には山陰地方へ普及している。
関西地方では、大阪湾岸の宮の下貝塚など縄文型の貝塚が継続した事例が見られ、縄文晩期から弥生中期に至るまで継続して貝塚が営まれている。
※Wikipedia引用
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