2017/07/20

『古事記傳』15-1 神代十三之巻【御孫命天降の段】(6)

この記では、古い名(外宮)を挙げて、この神はそこにいると言ったのである。ところが師の考察で「内宮には大御神の和御魂(にぎみたま)を祀り、外宮には荒御魂(あらみたま)を祀って、豊受大神はその相殿の神だ」と言ったのは、大きな間違いだ。豊受大神を相殿であるというのは、何の拠り所もない。続日本紀廿八の神護景雲元年の詔にも「等由氣の宮」と見えている。それも何とか曲論しているが、相殿の神の名でその宮を呼んだ例はない、また「内宮は大御神の和御魂、外宮は荒御魂」というのも、拠り所がない。およそ師が「和魂、荒魂」と解したことには、当たっていないことが多い。

 

たとえば大神宮式に、荒祭の宮を大神の荒魂と書いてあるのを論じて、「荒魂は和魂と並ぶほどの大社であるはずだが、荒祭の宮が小社であるのは、後世の勝手な改変によるのだろう」と言ったが、大和国城上郡の狹井坐(さいにます)大神(おおみわ)荒魂神社なども、大三輪と並ぶほどの大社ではない。むしろ小社である。とすると、必ずしも和魂と荒魂は同等に祀るのではない。また神功紀を引用して、摂津国の活田(生田)の神社を天照大神の和御魂と言ったのも、納得できない。廣田の社が天照大神の荒御魂だということは書かれているが、活田の社が和御魂だということは、どの文献にも見えない。活田の社は稚日女(わかひるめ)尊の社だということはあるが、稚日女尊を天照大神の和御魂と呼ぶことはできないだろう。

 

なお、神功紀のことは、別に論じている。大三輪が大穴持命の和御魂だということは、出雲国造の神賀詞に出ているが、杵築の社がその荒御魂だなどということは、書物に出ていたことはない。これも推測で杵築を荒御魂としたことは当たっていない。杵築の大社は、単に大穴持命の御魂である。荒御魂ではない。師の説には、この他にも二神であって一神のように見えるのを、どれもこれも和魂・荒魂と決めつけ、またその一方が荒魂なら、もう一方は必ず和魂だとしたが、どれも正しくない。なお、和魂・荒魂については、中巻神功の段、伝三十で詳しく述べる。】

 

ところが、【伊勢の】「神名秘書」という本に、「村上天皇の御世、祭主公節の時、皇大神は奥におられるので内宮と呼び、度会の宮は外にあるので、外宮と呼んだ。内宮・外宮の呼称はこの時に始まった」とある。【この説はたいへんもっともだ。】これによれば、内宮・外宮ということは、この時に始まったのだろう。【延喜式までは、こういう呼び方はしておらず、西宮記などにいたって、はじめて二宮を「大神宮・外宮」とか「内宮・外宮」とか書いている。

 

日本紀略の長保四年のところに、「伊勢の外宮云々」とあり、百錬鈔の後朱雀天皇の長久元年に、外宮のことを「大神宮の外宮」と書いてある。これはいにしえの意(大神宮を本宮として、その行幸の宮を外宮とすること)にかなっているが、この頃の呼称としては疑わしい。あるいは誤写だろうか。幾つかの写本を見て考察する必要がある。しかし大神宮とは二宮を合わせて言っており、「伊勢の外宮」という意味なら、当時としてもおかしくはない。

 

さて、村上天皇の時から内宮・外宮と言うのは、外宮という呼称がいにしえからあるので、それに対して内宮という呼び名が生まれたのである。この時から、外宮という呼び名も内宮に対する呼び名となって、いにしえの意とはいささか異なっている。また内宮というのは、奥の宮ということで、単に外宮に対して言う。ところがこれをかえって外宮より古くからある名と考え、地名の「宇治」と結びつける説などあるのは誤りである。「内(ウチ)」と「宇治(ウヂ)」は「チ」の清濁が異なり、相通わせて言った例はない。混同してはならない。】

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