●環濠集落・高地性集落
環濠集落・高地性集落は、集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられてきた。
環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山である。
ただ、秋田市地蔵田B弥生ムラが4軒の家を柵で囲んでおり、これを入れるとすると日本海側の防御集落の北限がさらに北上する。
これにより戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側の方が北まで広がっていたのではないか、と考える者もいる。
しかし、これには反論が存在する。
北部九州から伊勢湾沿岸までには環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多く揃っており、戦争があったと推定されるが、南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。
北関東と東北には、戦争があった可能性を示す考古学事実は殆どない。
遠江、静岡県浜松市には環濠集落はあるが、登呂などの静岡市周辺の大規模な弥生ムラには環濠はなく、戦争があった可能性は薄い。
神奈川県逗子市周辺は農耕的性格を示していながら、食料採集にも大きく依存していたことを示しており、戦争はなかったと考えられる。
北関東と東北地方の広い範囲は、米の生産高が低かったからこそ戦争とは無関係であったのであろうと推測する説もある。
さらに、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠が殆どない弥生時代早期に遡る事(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半 - 中期前半、特に中期初頭以降の北部九州では、むしろ環濠集落の事例は少ない事、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用し、環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることにより、外敵を有利にしてしまう(盛り土を矢避けにしたり盛り土の上から攻撃できる)事などから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考えるのではなく、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことにより、共同体の結束を高めることが目的であった。
または環濠により集団を囲い込むことによって、集団意識を高めることが目的であったとする議論も提出されてきている。
しかし、弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が多い事もまた明らかである。
環濠の性格については、地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないか、といった主張がある。
一方、古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。
高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落から見て、遙かに高い場所(平地からの比高差が50~300メートル以上)に営まれている集落のことである。
北部九州から、北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。
1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。
史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半 - 末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末 - V期前半期に該当していた。
このため高地性集落の盛行は、倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。
畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半 - 末に該当する。
畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。
畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張が多いが、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られる。
後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといった様々な議論が行われている。
一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が上述の理由から北部九州・畿内とも、おおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めている。
●倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。
また後漢書東夷伝には、桓帝・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。
近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。
この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外では殆ど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者は、あまり多くない。
倭国大乱が、どのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的には殆ど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。
一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても、瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。
倭国大乱の原因については、古事記、日本書紀等の神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。※Wikipedia引用
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